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村の文書

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 大炊堤出入ついて
 この大炊堤は、字堂島二〇六九番地地先から栗山川に沿って牛尾下の横芝町境近くまで通じる堤防兼農道で、かつては、十八丁堤とも呼ばれ、約二キロメートルにわたって桜並木が続く花見の名所でもあった。佐倉城を築いた土井大炊頭利勝が慶長十五年(一六一〇)佐倉藩主となり、寛永十年(一六三三)古河へ移るまでの間船越は同藩領であったが、この大炊頭利勝によって造られたことから大炊堤と呼ぶようになったといわれている(通史編近世・佐倉藩諸氏の項参照)。
 この堤は船越・牛尾両村の岬状に突出した部分を結び、両村域内の東方に広がっている大水田地帯を栗山川の氾濫による水害から全くといってよいほど防ぐことができる。したがって、堤を高くするほど次の文中にある訴訟方十四給五カ村(新井・篠本・吉田・谷新田・嶋)の被害は大きくなるわけであり、そのことから、船越・牛尾の行った堤のかさ上げ工事に対する異議が申し立てられたが、結局は、
一、大炊堤については、双方立会って、高低に不揃いのないよう普請のこと。
一、新井橋については、先年の裁許もあり、今般掛け渡すべきであるが、一二カ年の間はこれまでの橋掛け銭に加えてなお積金をし、期限に至ったならば掛け渡しをするべきこと。
一、栗山川悪水のことについては、双方申し合わせて浚い立て、その流れに支障のないようにすること。
一、五カ村が申し立てているうちの字白谷堤と往来道堤については、先年の裁許と済口証文があるので、今後ともこのことを相守ること。
 このような内容をもって、双方申し分なく内済となった。次にその文を見ていただきたい。
 
     大炊堤出入済口証文写
        差上申済口証文之事
拾四給五ケ村小前村役人惣代松平中務少輔知行所下総国香取郡篠本村名主太右衛門より、松平相模守領分同国同郡牛尾村名主八郎右衛門外三人江相掛り堤上置出入、四ケ年已前亥年(一八二七)九月中石川左近将監様御勘定御奉行御勤役中奉出訴、同年十二月二日御差日御尊判頂戴相附候処、相手方より茂返答書差上追々御吟味中、地所之儀就難御決地改御見分被仰付候所、其後御同人様御転役ニ付、内藤隼人正様御引渡ニ相成、地改御役人中様御越被成、場所御見分之上尚亦被召出、当時御吟味中ニ御座候処、今般懸合之上熟談内済仕候趣意、左ニ奉申上候。
一、右出入双方得と及掛ケ合候処、訴訟方ニ而者、五ケ村之儀者字栗山川縁ニ而、上郷百ケ村程之悪水落込相湛難渋村々ニ御座候所、相手船越村・牛尾村両村作場道新堤江悉上置致シ広太之堤ニ相成驚入、一体悪水之儀ニ付度々出入有之、其節ニ御裁許も有之、他村水腐仕候不厭勝手我侭ニ堤築立、可申様無之、再応懸合仕候而も不相用、難儀至極ニ付、新規上置之分削取、五ケ村水難薄百性永続仕候様ニ被仰付度段申立、相手方ニ而者、字大炊堤之儀者字白谷堤江引続千五百間余、牛尾船越両村水除並上総下総両国往来囲堤ニ而、欠損候節者領主役場より時々手当ヲ以上置普請致来候処、所々欠崩候ニ付去ル亥年六月中領主役人中出役之上上置普請取懸り候儀ニ而、訴訟方村々差障等相成候場所ニ無之、然ル処訴訟方之儀、字新井橋先年及出入ニ、早々可掛渡旨御裁許御座候処、訴訟方村々役人共多分之渡し銭積金有之候得共今以渡船ニ致置候故、出水之度ニ大炊堤江悪水強く押当難渋仕候ニ付、掛渡之儀懸合候而も等閑ニ乍致置、却而壱丈余ニ上置致し候抔取繕大造ニ申立、及出訴候段難心得旨其外品々答上御吟味中之所、場所御見分被成下候上尚亦被召出当時御吟味中ニ御座候処、今般得と懸合之上左之ケ条之通
一、字大炊堤之儀者、今般御分見拾番杭之水盛を元立ニ致し、堤築留迠双方立会、右水盛ヲ以陸を定、高キ所者削取、低キ所者置土致し、前後不陸無之様ニ普請可致事
  但、水盛普請致し候上者、前後中三ケ所江五寸角ヲ以定杭相立、朽腐候節者、訴答村々役人共立会打替可申、若立会差支訴訟方之者不罷越候ハヾ、相手方村々斗ニ而打替可申事
一、字新井橋之儀者、先年御裁許之趣も有之候ニ付、今般掛渡可申処、双方示談之上、当寅年より十二ケ年之間、是迠積置候橋掛ケ銭之上江尚又積金致し、右年限ニ至候ハヾ無遅々掛渡可申事
一、字栗山川悪水之儀者、前々仕来之通川筋葭真菰生茂り候分を苅捨、寄渕等之場所者尚亦双方申合浚立いたし、水行差支無之様取斗可申事
一、訴訟方ニ而申立候内字白谷堤並往来道堤之儀者、先年御裁許並済口議定証文茂有之上者、以来共右之趣相守可申事
前書之通り双方無申分熟談内済仕、偏ニ御威光と難有仕合ニ奉存候。然ル上者右一件ニ付重而御願筋毛頭無御座候。依之為後日連印済口証文差上申処如件
                                   板倉伊予守領分
                                    下総国香取郡新井村
                                   松平中務少輔知行所
                                   岡野平兵衛(同)
                                   本間重右衛門(同)
                                   青木小左衛門(同)
                                   本目勝左衛門(同)
                                    同国同郡篠本村
                                   板倉伊予守領分
                                   榊原主計頭与力給知
                                   山岡五郎作知行所
                                   伏見勘解由(同)
                                   長谷川鑛五郎(同)
                                   小笠原銀次郎(同)
                                   山崎鎮次郎(同)
                                    同国同郡吉田村
                                   永井幸之助知行所
                                    同国同郡野新田村
                                   安藤治右衛門知行所
                                    同国同郡嶋村
                                    右拾四給五ケ村
                                      小前村役人惣代
                                    松平中務小輔知行所
                                     右篠本村 訴訟人
                                           名主 重郎兵衛
                                    榊原主計頭組与力給知
                                     右吉田村
                                           名主  弥兵衛
 文政十三寅年(一八三〇)壬三月十三日
                                    追而地所御改之節相手方江加り候
                                     松平大隅守知行所
                                      同国同郡船越村
                                            名主幸左衛門
                                     松平相模守領分
                                      同国同郡同村
                                            名主与平次
                                            同 藤左衛門
                                         右三人煩ニ付代
                                         相手方組頭庄左衛門
                                     同領分
                                      同国同郡牛尾村
                                         名主清兵衛煩ニ付代兼
                                          名主八郎右衛門
     御評定所
前書之通御評定所江済口証文奉差上候処、御聞済ニ相成候間、則写し為取替置申候。以上
                                          右
                                           重郎兵衛
                                           弥兵衛
       庄左衛門殿
       八郎右衛門殿
 
 非常道具修覆無尽帳について
 これは、非常道具修繕の費用に充てるために堂谷の若者たちが無尽(むじん)講(金銭の融通を目的とする一種の講)を組織し、それを勧誘したときのもので、初会から二四回の結会までの明細が記されている。「非常道具」とあるのは具体的に何を指すのかは不明であるが、無益の遊びにふけらず質素倹約に努め、これら諸道具の修繕・保持については若者だけの手で行おうとするもので、他にあまり例を見ない文書といえる。
 
   非常道具修覆無尽帳
                                  堂谷 若者中
一、先般非常道具相整候砌、御役場より引当金御下ケ被下置候仕来ニ御座候。近年凶作打続年々御願申上候茂甚恐怖之至ニ奉存候。
 当時若者共少人数折柄故、何事茂省略致し、今より改正仕、質素倹約相守、聊寸陰ヲ費無益之遊戯ニ触候様不申心懸罷在候。今般非常無尽相企候儀者、全以向後之為筋冝敷様、非常道具並鼓太鼓修覆相整候処相違無御座候。
 然上者若者中何程之入用相嵩候共、部田方江勧化等一切仕申間敷候。無尽盛立之儀者、不拘豊凶ニ年々三季ニ成立仕候。何卒任御思召ニ御加入被成下候様偏ニ奉願上候。以上
   文久元年酉(一八六一)十一月
                                     若者中
 
     初会
一、金四両ト拾匁    鬮(くじ)数弐拾五本
           但し壱人前銀十匁かけ
   銀廿八匁弐分五厘 割返し金也
   同七匁五分    花くち
   同十匁      席料
  引〆
   金三両壱分ト九匁弐分五厘渡し金也
                                        (以下省略)
 
 この結果、どれほどの金額によって、どの程度の目的が達せられたのかはわからないが、幕末期における若者の一面を知ることができる。