現在(昭和五十九年十一月現在)の規模は
宅地 九町八反三畝一八歩
田 一三四町五反一二歩
畑 二〇町六反三畝三歩
山林 一七町一反一六歩
原野 一町九反八畝一二歩
池沼 九反九畝二一歩
その他 六反九畝一三歩
計 一八五町七反五畝五歩
世帯数 一〇六戸
人口 四四四人 男二二一人 女二二三人
(世帯数・人口は昭和五十九年十月現在)
このようになっている。
これに対して、寛文十二年(一六七二)に多古藩が調査した資料(後に詳述)によると、
高 千弐百拾七石九斗四升
田 百弐拾壱町四畝九歩
畑 拾五町四反五畝弐拾弐歩
屋敷 弐町四反七畝拾歩
田畑屋敷合わせての面積は一三八町九反七畝一一歩である。
そして弘化二年(一八四五)関東取締役の調査には「松平相模守領分 高千弐百拾七石九斗四升 家数九拾三軒」と、同じ数値の石高が記されている。
この五年後に松平氏は国替えとなり、同領地は旗本によって知行されるが、明治初年の『旧高旧領取調帳』は
代官支配所 八四二石三斗五升五勺
杉浦常之助 三九〇石九斗八升九合五勺
と記し、その合計石高は一二三三石三斗四升となっている。
このことから現在を見ると、田畑宅地の面積で約二六町歩、戸数で一三戸の増加があったことがわかる。