その後永い歳月の間に、具体的にどのようなことがあったのかについてはもちろん知り得べくもないが、原野を開墾し、沼地を干拓してそこに生活の場を求め、次第に集落を形成していったものであろう。村・郷によっては正倉院文書などによってその歴史を立証している場合もあるが、それはきわめて数少ない例である。
平安時代(七九四~一一八四)初期の大同三年(八〇八)に字白幡山の白幡大神が創立されたといい(『社寺明細帳』による由緒)、末期には千田庄に属し、中世(一一八五~一五七三)以降は千葉氏の所領となって永く続いたことは、当地方における他集落のそれと同様である。そして、同支族の牛尾胤仲が多古城主となって四隣を領したのは中世・室町時代(一三三六~一五七三)末期といわれる(『多胡由来記』)。
この牛尾胤仲が支城として築いたと古くから当地域に伝承される牛尾城(砦)について『香取郡誌』は
東條村牛尾の西方に亘れる丘岡にして、多古城主牛尾胤仲能登守支城を此に置けりと。今や荒敗して其址詳ならず。岡上弁天社あり、古は砦下に在りしが後此に移す、之を城の台と称す。接近地に城辺田、馬場等の字名を存せり。
伝へ曰ふ。胤仲の小田原に抗するや、北条氏政坂田城主三谷大膳・山中城主和田伊賀守等をして牛尾を攻めしめ、之を陥ると。
と述べている。
その城跡は字城辺田三七九番の集落西方に連なる丘上にあり、芝山町との境いに沿っている。ここに「物見塚」と呼ぶ塚が二基並んでいるが、その上に立つと船越から横芝町にかけて拡がる栗山川沿岸一帯の水田が望まれ、一方、裏手の芝山町側は切り立った崖になっている。
牛尾城址
「物見塚」からおよそ一〇〇メートルほど行った丘の先端部に共同墓地があり、このあたりが字城の台といわれているところである。『千学集』の一節に、
――此の子七、八歳ばかりの時、屋形様の命により新左衛門殿討たれにけり、善阿弥は伯父なれば、驚きて彼の子をむさの牛尾なる福満寺へ具して頼み置きぬ。
とあり、この福満寺は、字侭田にあって明治年代に廃寺となった福万寺のことと思われる。
このように見てきたとき、千葉氏支族が牛尾にいてそれを姓とした中世中期から末期には、福満寺を菩提寺とする檀徒がそこに住み、平安時代初期の大同三年(八〇八)ごろには、白幡大神を鎮守社として崇める氏子たちがすでに集落を形成していたであろうし、それ以前の、独木舟による古代人の生活さえ見ることができる。