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村の支配者

985 ~ 994 / 1100ページ
 牛尾一族による統治
 戦国時代以前まで当地周辺を統治していたのが千葉氏一族であることについてはたびたび述べてきたところであるが、とくにその支族牛尾氏は、ただ牛尾ばかりでなく「四領を領した多古城主」としてその名はつとに知られている。
 次に『千葉大系図』および『松蘿館本千葉系図』によって牛尾氏系譜を見ることにするが、通史編「多古城主牛尾胤仲」の項を参照しながら読んでいただければ幸いである。
 そして、『千学集』に載せられた前記の「――此の子七、八歳ばかりの時、屋形様の命により新左衛門殿(注・胤善)討たれにけり。善阿弥は伯父なれば、驚きて彼の若子をむさの牛尾なる福満寺へ具して頼み置きぬ――」の文中「彼の若子」とあるのは、左の系図末尾に見える胤資(賛)のことと思われる。
 なお『妙見実録千集記』には胤資を胤賛(スケ)として次のように記している。
 
一 牛尾原孫次郎胤親末子胤善[原新左衛門尉其ノ子ニ] 胤賛(スケ)[牛尾美濃守入道始也] 胤廣[尾張守其ノ子ニ] 胤家[隼人佐其ノ子ニ] 胤重[左衛門其ノ子ニ] 竹次郎 左衛門 右衛門 彦七郎[小金城合戦ニ討死ス] 胤清弥五郎 胤道右近太夫 胤仲右近太夫
  牛尾入道美濃守胤賛ノ子五人胤廣尾張守 五郎右衛門 三郎右衛門[仁戸名ニ居住ス] 女子二人[一人ハ小金高城和泉守室一人ハ府中石塚ノ内室]

千葉大系図


松蘿館本千葉系図

 牛尾氏の事績については、明和四年(一七六七)に多古村住人軌薫が書いた『多胡由来記』に次のように記されているが、当地方における伝承はこの書による点が多いようである。
 地域史編多古の項に引用した文との重複を避け、その一部を載録する。
 
 こゝに又、牛尾・船越・谷の台も一円領地す。牛尾右近太夫胤仲在城し、其の由来を以って牛尾村と云ふ。元は継(まま)田と申しける。船越伊織と申す船越村に住す。元は小嶌と申しける。伊織住居に付舟越とはなれり、然るに牛尾胤仲殿は御幼年の時臼井の城主より養子に来りし人成るとかや。
 其の後当村の城主飯土井どのに攻戦ふこと数度におよび双方古今の勇士也。然れども飯土井殿は終に打取られ亡び給えり。夫より牛尾胤仲殿多胡の城に引移り候也。
(中略)然るに妙薬寺由来を尋ぬるに真言宗にて有之中昔応永の頃より改宗致し、其の節中山末寺に極り此の前は西御屋敷の脇部田也。中ころ後桜畑に居後に今の木戸谷に移る、此寺は山崎仁右衛門と申す者の屋敷也。此時中頃自火にて焼けたり、年号寛文五己(乙)巳(一六六五)二月十五日。又近年は寛延二己巳年(一七四九)四月十八日夜同じく自火過去帳迠焼失。然れ共宝暦年中に寺堂建立し、然る処寺院の古書を鑑みるに城主胤仲どの御子三人有り、息女武蔵国の武家へ縁付候、如何成る因縁にや瘡毒を引うけ依之離別す。
右病気祈願の為に鰐口壱面銅の燈籠壱ツ染井原の坊の三宝へ奉捧、胤仲殿は原の坊の大檀那也。今祖師堂の前大鰐口切付し、銘に染井妙印山妙光寺大檀那牛尾右近太夫胤仲としるし今もって有之、然れ共御娘子存命限りに候故終に相果、法名善智院妙真大姉と有り
 
 以上が牛尾氏に関する部分である。
 牛尾氏の敗滅後は飯櫃城主山室氏がこれに替わり、牛尾氏領分はその全域を山室氏が支配することになった。
 徳川幕政下の統治者
 そして天正十八年以後関東は徳川家の統治するところとなり、徳川氏旗下の武将がこれまでの支配者に代わって領知することになった。まず最初に保科氏が一万石多古藩主となり、次いで土方氏の所領から土井・石川氏(佐倉藩)と領主が替わり、寛永十二年(一六三五)再び多古藩領となって松平勝義が入国した。
 松平家の支配は嘉永四年(一八五一)まで続くが、その詳細については省略し(通史編「久松松平氏と多古藩」参照)、同家が年貢を徴収するにあたってその基礎とした田畑の等級別生産高を記したものを次に載せる。これは寛文十二年(一六七二)に多古藩が調査したものである。
 また茂原市内にある旧多古藩領の記録による年貢皆済目録を続いて記すが、これらは、松平家が嘉永四年に国替えになったとき過去三〇年間の年貢関係記録を各村から引きあげたため、わずかに残った貴重な史料である。
 
           下総国香取郡牛尾村
  一、高五百四拾石五斗弐合   本田畑辻
   高弐百七拾六石壱斗八升四合 古新田
   高三百五拾七石四斗壱升六合 新田
   高四拾三石八斗三升八合   辰新田
     〆千弐百拾七石九斗四升
   反別合百三拾八町九反七畝拾壱歩
    内百弐拾壱町四畝九歩   田方
      分米千百壱石三斗八升五合
     拾七町九反三畝弐歩   畑方
      分米百拾六石五斗五升六合
         此訳
   上田拾五町八畝拾弐歩     十五
    分米弐百弐拾六石弐斗六升
   中田弐拾六町六反八畝七歩   十二
    分米三百弐拾石壱斗八升八合
   下田七拾弐町八反七畝廿四歩   七
    分米五百拾石壱斗四升六合
   下田壱反三畝拾八歩       七
    分米九斗五升弐合
   下田六町弐反六畝八歩      七
    分米四拾三石八斗三升九合
   上畑五町弐反廿九歩       九
    分米四拾六石八斗八升七合
   中畑四町七反三畝三歩      六
    分米弐拾八石三斗八升六合
   下畑五町五反壱畝廿歩      三
    分米拾六石五斗五升
   屋鋪弐町四反七畝拾歩      十
    分米弐拾四石七斗三升三合
     寛文十二子年九月廿八日        山崎与一右衛門
                        菊地治左衛門
                        芝高安太夫
                        村田三郎左衛門
         外除
                内屋敷
  一、四畝拾弐歩 法蔵院  一、三畝歩  同
   外屋敷          堂之下
  一、拾四歩   同    一、拾弐歩  同
   内屋敷畑
  一、弐畝廿歩  密蔵寺  一、三畝拾歩 同
  一、廿歩    同    一、廿四歩  同
   居屋敷          内屋敷畑
  一、五畝拾五歩 同    一、六畝廿歩 同
  一、三畝廿歩  同    一、八畝拾三歩 同
  一、弐畝拾八歩 同    一、弐畝歩   同
   内屋敷畑
  一、拾七歩   薬師   一、三畝六歩  善海坊
   外屋敷畑         内屋敷畑
  一、壱畝廿六歩 同    一、八畝廿六歩 同
                内屋敷畑
  一、四畝歩   白旗明神 一、三畝壱歩  十王堂
                畑
  一、弐畝歩   同    一、廿八歩   同
   畑
  一、壱畝弐分  同    一、三畝歩   東光寺
   内屋敷畑
  一、三畝六歩  同    一、弐畝拾七歩 同
  一、六歩    同    一、壱畝弐歩  同
                内屋敷畑
  一、廿八歩   同    一、壱畝歩   同
  一、壱畝廿弐歩 蔵屋敷
     小以八反三畝廿五歩
   上田           上田
  一、四畝歩  白旗大明神 一、壱反弐畝拾九歩同
     小以壱反六畝拾九歩
 
       年貢皆済目録
                牛尾村
  一、高五百四拾石五斗弐合
    内九石一斗六升七合   定式引
   有高五百三拾壱石三斗三升五合
   取米弐百七拾石九斗八升九勺  取五ツ一分
  一、高弐百七拾六石壱斗八升四合 古新田
   取米百拾五石九斗九升七合三勺 取四ツ弐分
  一、高三百五拾七石四斗壱升六合 新田
   取米百三拾五石八斗一升六合  三ツ八分
  一、高四拾三石八斗三升八合   辰新田
    内七石五斗一升六合     永代引
   取米九石八升壱合取      弐ツ五分
   取米四口合
   五百三拾壱石八斗七升七合五勺
  一、米千五百拾九俵弐斗五升九合六勺 本米
  一、米四拾壱俵弐升八合六勺     口米
  一、米弐拾三俵           芦場年貢
  一、米弐升             寅年改新田見取
   合米千五百八拾三俵三斗八合弐勺
  一、永弐拾壱文           小物成納
  一、米弐百三拾俵壱斗九升四合    定式引
    内米百八拾六俵         水腐場引
     米拾六俵           名主給米
     米壱俵壱斗弐升九合四勺
             亥年揚場広ケ捨
             田地四百五拾五坪三分
     米弐俵三斗弐升
             申年辰新田
             五反六畝七分 白鳥沼年貢引
     米六俵壱斗六升 外谷荒地引
             午ノ年より崩折 押砂畑成之処
     米弐斗四升弐合 明和九辰年立帰り残り引
     米三俵     明和九辰年谷台堰溝代代々引
     米弐俵三斗七升九合 明和九辰年より堀割用水溝代々引
     米弐斗壱升一合 酉年新溜井代々引
     米弐斗三升八合 胡麻代米
     米壱斗五合   牛房代米
     米壱斗五合   納人扶持米
     米拾俵     大豆代米
     米       御夫人拾弐人
   〆高千弐百拾七石九斗四升
 
 多古藩松平家が国替えとなった後、八百四十石余の分は代官支配地となったが、同時に別の三百九十石余を知行したのが杉浦氏である。
 杉浦氏は総高七百石の旗本で、徳川氏が三河国の地方豪族であったころからの家臣である。永禄六年(一五六三)に惣左衛門久勝が分家独立して、三河国(愛知県)三木村を知行地とした。孫の政清は家光に仕えて万治元年(一六五八)小十人の番頭にうつり、三百石を加えられて七百石となったが、寛文元年(一六六一)には綱吉に付属せられて神田の館の家老となり、別に采地三千石を賜わっている。のち、天和元年(一六八一)に千石の加増を受けて四千石となり、綱吉の子徳松の側役を勤めた。
 その子政令(のり)は、寛文元年父政清が別に采地を与えられたことから、本領の地四百石と廩米(扶持米)三百俵を賜わり、元禄十年(一六九七)この廩米をあらためて采地三百石を受け、のち寄合に列せられた。
 その後代々小姓組番士、書院番などの役を勤めて恒隆、正美、正積、正悦、正安と続き、次の正利(伝之丞)が牛尾における三百九十石余の分と水戸・入山崎の一部を知行地としたようである。
 明治に至った最後の当主は常之助であるが、年貢などの内容については資料がなく、明らかにすることはできない。