境内には、亜鉛葺雨屋の中に神名の刻まれてない二基の石宮のほか、庚申塔が三基あって、拝殿右奥のものに「青面金剛 利右衛門 伊平 七左衛門 市十郎 十郎 勘兵衛 藤蔵 元禄四歳(一六九一)五月十三日 東光寺 兵衛 勘之丞 八郎兵衛 市兵衛 藤十郎 源兵衛」。石段中ほどの左右にあるものには表に尊像の浮彫りが見られ、「奉成就庚申講為二世安楽 宝永八辛卯(一七一一)五月吉祥日」「当村下講中 天明八戊申(一七八八)十二月建之」と刻まれている。
三峯社は高さ一メートルほどの焼物の少祠で、礎石部分に「三峯神社 寄附加瀬竹次 加瀬明 加瀬忠」とある。
二五センチほどの石造手洗いには「白幡大明神 宝暦六丙子年(一七五六)十一月十五日 佐藤氏佐藤氏鈴木氏鈴木氏」とあるが、このような刻銘は珍しい。
丘の下に石造の鳥居があって「紀元二千五百四十五年明治十八年十二月 建之氏子中」とあり、そこから登る石段は途中に二カ所の踊り場が設けられてあるが、下段に「奉納 文政五壬午歳(一八二二)正月吉日 御宝前郷中安全」、中段には「奉納 鎮守白幡大神御宝前」とあって、寄付者氏名が次のように記されている。「勝又茂 勝又金太郎 佐藤重平 千葉英樹 加瀬良平 加瀬九十郎 仝昌朔 野瀬隆三 勝又亀太郎 中川孝一 千葉豊吉 土屋種一郎 仝弥吉 佐藤伊十郎 勝又大吉 仝倹二 牛尾子之助 佐藤幸太郎 仝已之助 伊藤雄太郎 仝平司 中川真佐雄 仝甚一郎 勝又直吉 仝勘之丞 仝勝二 加瀬喜一郎 仝幸太郎 仝豊 仝弥八 仝作治郎 仝民治郎 仝粂太郎 加瀬定四郎 仝菊治郎 仝良之助 仝温治郎 仝五郎次 仝きく 仝和平 加瀬作蔵 仝貞治郎 土屋寛司 萩原留吉 黒川兼太郎 加瀬総吉 仝庫吉 土屋太治右衛門 富岡芳郎 御神酒糧 加瀬平三郎 常盤村南玉造越川峯松 横芝町石工宮永徳太郎 発起人加瀬良平 仝九十郎 勝又金太郎 氏子総代人勝又茂 仝亀太郎 千葉久太郎 中川孝 氏子中大正七年十月中段新設」。そして上段には「鎮守御宝前 昭和五年二月改築 石工横芝町宮永徳太郎 祝七五三佐藤操 佐藤泰 佐藤晋 奉納上石段 改築工費一金弐百拾弐円也 奉献者佐藤重平」と刻まれている。
また、昭和十八年に軍事資材として供出させられた梵鐘には次のような刻文があったと伝えられている。「一打鐘聲 當願衆生 脱三界苦 得見菩提 弘化四丁未年(一八四七)十一月 供養導師真龍山法印公然 牛尾村願主正善 金壱両(以下四十六名氏名省略)」
創立とされる大同三年(八〇八)は平安時代初期で、桓武天皇の薨去後平城天皇となり、坂上田村麻呂が東征して多古町域にも多くの伝承を残しているころであるが、古代の草創であるにもかかわらず、社伝の少ないのは、明治四十年の火災によって記録が失われたためであろうか。