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寺域内の石塔・石碑

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 現在の建物は明治二十三年に再建された庫裡併設の一棟だけであるが、境内の地形はかつての伽藍を偲ばせるに十分なものがあり、それだけに石塔類も多い。入口から順次奥へ見ていくと、まず最初に、西国参りの記念碑であろうか高さ七二センチの石柱には、かすかに「文化八年(一八一一)」の年号だけが読みとれる。
 前記の塔との間に地蔵尊像が立ち、そのわきに同じ高さの供養塔があって「本空信士太郎左衛門三十二 浄盛信士清五郎二十二 浄照信士善蔵二十歳 浄宥信士平蔵二十二 旹安永八己亥(一七七九)八月二十六日 施主当邑下惣若者中」とある。若者四人の供養塔であるが、これについては後日、その伝承などについていっそうの調査をすすめたいと思う。
 また供養塔は昭和十一年に建てられた二メートルあまりのものがもう一基ある。
 馬頭観世音は高さ一・五メートルで、昭和五年に建てられたものである。
 標柱は一四七センチの石柱で「真言宗智山派戸崎山宝幢院密蔵寺 昭和五十六年十一月吉日 加瀬竹次建之」とあり、高さ一メートル弱の仁王尊碑が二基併立し、「仁王尊」の刻字と「昭和六未年旧正月加瀬平三郎建之」の文字が見られる。
 境内山裾に子安宮といわれる木造小宮があって、母子像が安置されている。子安宮のかたわらに横五五センチ縦九四センチの板碑があるが、かすかに梵字のあとが見られるだけで、刻字は読み取ることができない。