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遺跡

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 舟問屋跡
 字引船(ひきふね)一九六九番にある。現住の勝又家(屋号「問屋」)は三代ほど前の幕末のころ、舟問屋を業とするため親村から栗山川沿いの現在地に移住したという。
 多古町域内最大の水田地帯を蛇行していた栗山川は、昭和三十年代に耕地整理事業の実施に伴ってほぼ直線的に改修され、かつての舟運の名残りをとどめるものはこの問屋跡だけとなった。
 それまでは川の所々に「マアト」と呼ばれる川幅の広い場所があって、そこで舟のすれちがいや方向転換がなされ、また、本流からは「エンマ」と呼ぶ掘割りが人家近くまでその流れを導き、舟の往来を便利にした。
 この舟運について、当時の里謡は次のようにうたっている。
 
  船はチャンコでも 炭薪ゃ積まぬ
    積んだ荷物は 米と酒
 
 また御所台の並木栗水は当時の情景を、その著『栗水漁唱・上巻』の中で
 
     栗山川所見
   山挟平田一水遙
   沿流村落半漁樵
   扁舟回棹帰何処
   帆影低過雙井橋
 
このように詠んでいる。
 この粟山川舟運の歴史は昭和の初期まで続けられ、舟問屋は井戸山・次浦などにもあったが、残された史料は意外に少ない。
 次の文書は三倉村の利兵衛が「川下村 願書之写」と標記して所有していたもので、栗山川舟運のことにふれた貴重な記録である。ここにその全文を載せる。
 
     乍恐書附を以御訴訟奉願上候
                              清水御領分下総国武射郡中里村
                                     同国同郡栗山村
                              加藤博之丞知行所同国同郡清水村
                              大久保茂十郎知行所同国同郡栗山村
                              辺見八左衛門知行所同国同郡同村
                              内方鉄五郎支配所下総国匝瑳郡上原村
                              板倉肥前守知行所同国同郡目篠村
                              内藤伊織知行所同国同郡宮川村
                              安藤太郎右衛門知行所同国同郡木戸村
                                            長塚村
                              伊藤三右衛門知行所同国同郡後宮川村
                              右九ケ村惣代
                                  清水御領知栗山村
                                    名主七郎兵衛煩ニ付
                                    組頭 善三郎
                                  内方鉄五郎御代官所上原村
                                    名主 金右衛門
                                  内藤伊織知行所宮川村
                                    名主 四郎左衛門
右九ケ村惣代栗山村組頭善三郎、上原村名主金右衛門、宮川村名主四郎左衛門奉申上候。右惣代村々並近郷十二ケ村都合廿一ケ村之儀ハ、栗山川筋通りニて一体地高之耕地、水損と申儀無之旱損場ニて、右栗山川水上ハ当郷より六七里先、上総国屋形木戸と申所より 海水落迠、川幅三拾間余之場も有之、或ハ十四五軒之所も有之、右川縁通付之村々ニ御座候所、当三拾余年已前迠ハ旱損も無之年々田方出来宜敷、御百姓無難ニ相続仕来り候所、三拾余年以前ハ兎角御田地仕付荒数多出来難義仕、古来杯ハ外郷旱損仕候ても、当村抔ハ御田地廻水難義無御座候処打続旱損仕、惣百姓一同困窮難義之余り大勢百姓種々愚案仕候処、全四十余年已前栗山川通船仕来り候て、古川筋土砂押流し川底低相成、先年よりハ凡三丈余も水底掘仍而川附之村々岡万水保無之候ニ付、自然と旱損年々ニおよび難義之旨、惣百姓一同存極メ候ニ付、此上年々旱損候てハ、行々村々難渋仕候義暦然ニ奉存候。甚安心仕がたく、仍而今般無是非御願奉申上候義ニ御座候。
右栗山川通船之義ハ、当四拾年已前、上総国武射郡川西村忠治郎と申者船運上奉願上、右願相叶ひ通船世話仕居候所、其後荒(新)井村へ世話譲り渡シ、夫より下総国匝瑳郡牛尾村利右衛門方より冥加金御上納仕、通船元方世話仕、当時ハ船数七艘程ニて毎日右栗山川通船仕来り候。荷物品之義ハ真木干鰯之類ニて、御用船荷品之義ニてハ決而無之候。
然所通船櫓竿を用ひ水底かき立候故、搔荒候土砂汐さし干ニハ海中へ押流し候義毎日ニて、年月重り自然と水底地穿ニ相成、先年よりハ見丈三丈余程押流シ候様子、依之川付村々用水堰或ハ沼井土等ニ至迠渇水仕、大雨之節ハ一時に栗山河へ水押流一向岡万水保無之、川付村々御本田新田共に植付差支、或ハ仕付荒等多仕付候場も一体水不足故稲作実り悪敷旁々ニて兎角旱損仕、御年貢御上納之差支ニ相成、無拠御取箇御勘弁之御願等仕候様ニて恐入候事とも、誠に年毎ニて、惣百姓甚困窮難義仕候。
御田地永々の御障りに相成候義、全栗山川通船仕櫓竿を以水底かき荒ゆへ土砂押流し水底低相成り、水落岡万水保兼候ゆへ之義と存詰候間、奉願上候通船皆止メ相成候得ハ、川 も年重水底埋岡万水保候得ハ古来之通水不足なく成行、惣 々御本田新田共ニ土地柄相直り、御取箇筋御差支無之、年々無難ニ御田地相続相成惣百姓一同相助り難有仕合ニ奉存候。勿論冥加金ハ私共村々より御上納仕度、是又奉願上候。尤通船荷品之義ハ干鰯真木而已(のみ)にて皆止メ相成候而も差障りにハ決而相成申義乍恐奉存候。
右之段被 御聞訳、願之通通船相止メ被仰付被下置候ハヾ川付村々一同相助り、広太之御慈悲と難有仕合ニ奉存候。以上
   寛政四子年(一七九二)三月日
                                   九ケ村惣代
                                     栗山村 善三郎
                                     上原村 金右衛門
                                     宮川村 四郎左衛門
   御奉行所様
 
 この文に見られるように、宝暦二年(一七五二)ごろ以前に上総国川西村の忠治郎が舟運にたずさわっていたが、その後牛尾村利右衛門が冥加金(一種の営業税)を納めて通船の元方(もとかた)となり、七艘ほどの舟で栗山川を運航し、荷物は薪・干鰯(ほしか)など日用の品々であった。
 この通船が櫓や竿で川底の土砂を搔き立てて下流へ押し流すことから、ところによっては九メートルあまりも川底が深くなって水位が下がり、そのために沿岸の村々では用水が枯渇し、旱損のため年貢上納にも支障が出るようになったという。
 舟運通船を止めることができれば水不足の問題もなくなり、百姓一同は大助かりである。これまでの冥加金は舟問屋に代わって川付村々で上納するので、どうか通船停止の処置をとって下さるようにお願いする、という次第で、これが川下村々の願いであった。
 この願いに対してどのように裁定されたのかは古文書資料もなく不明だが、その後の経過についての一部を記したのが次の文書である。
 
   相定申連印之事
一、当村々下栗山川筋多胡飯出橋より岩部麻黄橋迠河附拾三ケ村之儀、別而水損場夥鋪有之候ニ付、御公儀様御代官内方鉄五郎様御手代神保七兵衛殿、当川筋一件ニ付、寛政四子年(一七九二)牛尾村江御下り被成候 一同申上、春夏中渇水を見合、芦真菰等ニ不限川苅可仕由願上置候義故、向後十三ケ村一村切年番相勤、諸談合人足触等世話可致候。然所大小之村々有之候ニ付、相談之上振合を以、御所台村寺作村々谷三倉小三倉 二ケ村宛々ニて相勤候様相極候。
 然上ハ年番村より触出し候砌、人足出方聊無滞差出可申候。就夫網代守木柱等川中へ立置猟致候事、一統に相談之上堅致間鋪候。且又河向ひ合地続之場所も相互ニ親ク意恨無之様普請可致候。
右之通り十三ケ村相定候上ハ年々無怠急度相勤メ可申候。為後証連印仍而如件
                                井土山村名主 治郎兵衛 印
                                寺作村名主  惣右衛門 印
                                御所台村名主 善左衛門 印
                                西古内村名主 次郎右衛門 印
                                次浦村名主  武右衛門 印
                                小三倉村名主 大内蔵 印
                                谷三倉村名主 嘉兵衛 印
                                三倉村名主  幸右衛門 印
                                苅毛村名主  恒蔵 印
                                岩部村名主  源兵衛 印
                                西田部村名主 新左衛門 印
                                玉作村名主  庄左衛門 印
                                同村同断   五郎右衛門 印
                                北中村名主  理左衛門 印
                                同村同断   忠兵衛 印
                                同村同断   庄左衛門 印
   寛政七乙卯年(一七九五)六月日改之
                                      右拾三箇村立会
 
 これも前掲の三倉村利兵衛文書であるが、飯出(飯土井)橋から麻黄橋(浅黄橋・栗源町岩部)までの沿岸十三カ村は、特に水害を受ける場所が多く、前記願書のこともあるところから、代官内方鉄五郎手代の神保七兵衛が同年牛尾へ見分に来たようである。
 そして川刈りや漁についての相談とり決めを、各村が申し合わせて連印したのがこの文書である。
 舟人たちの仮泊地として野新田に仮小屋が造られ、周辺が干拓開墾されてからは人々が定着し、後の中村新田が誕生したとの口伝も残しているが、明治三十九年に多古から栗源経由佐原行きの県道が開通したことと、同四十四年の成田・多古間軽便鉄道の新設に加えて、この時代の馬車の普及は、川舟の積荷を少なくする大きな原因となった。
 最後の舟問屋であった勝又家は大小三艘の持舟で牛尾から下流の運行をしたといい、ほかに四人ほどの舟主がそれぞれ一艘ずつ持ち、大型の舟は全長一〇メートルを超え、幅は二~三メートルあり、米ならば一〇〇俵ぐらいは積み込んだという。この舟運も昭和六年ごろ多古・横芝間に県道ができたことにより、ついに廃止のやむなきに至った(勝又一碩氏談)。
 なお、前記の川刈り会合については「旧栗山川川刈会合保存会」によって現在に受け継がれている。