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村の文書

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 ここに残された古文書はその数も少なく、当地には古村としての伝承が多くあるにも関わらず、史料による裏付けの十分にできなかったことが惜しまれる。
 他集落の例に見られるように水利問題についてはよく訴訟争いとなり、牛尾においても同じことがいえるようである。
 地獄網一件のこと
 大炊堤補修に関係して、牛尾・船越二村が一四給五カ村から異議を申し立てられたことは船越の項で述べたが、次に、牛尾村名主七郎兵衛が代表となって現在の光町北部と横芝町一部の六カ村を相手に提訴した文書により、栗山川をめぐる協定やしきたり、違法な地獄網魚漁によって起こった事件の内容を見ることにする。
 これは島区有文書として保管されていたものであるが、あるいはそのときの仲裁者が島村の名主であったのかもしれない。
 
     地獄網内済証文
   差上申済口証文之事
下総国香取郡牛尾村小前村役人惣代名主七郎兵衛より、同国匝瑳郡宮川村百姓新兵衛外拾五人江相掛り不法出入之旨、去月中当御奉行所様江奉出訴、当月廿五日御差日御尊判頂戴相手方江相付候処、御差日以前村方ニて扱人立入、掛合之上熟談内済仕候趣意左ニ申上候。
一、右出入訴訟人七郎兵衛より申立候者、牛尾村之義者御料私領合高千弐百石余有之入会之耕地、字栗山川縁ニて地窪之土地、少雨ニても上郷数ケ村より悪水右川江落込逆水湛難渋仕、依之川筋無油断藻草苅流水行差支無之様心掛ケ、往古より歳々七月上旬ニ至り農隙見斗へ、川下相手村々其外江沙汰いたし人足差出シ、藻草苅流差支無之様致来候処、川下村方之ものども、出水時ニ地獄網と唱江漁具水中江張詰水行差妨候ニ付、右体之義致間敷筈申合せ置候処、去々午ノ歳中牛尾村稲草肝要之節、宮川村始其外村々のものども、水中江地獄網打張水湛候間、出訴之義申断候処、宮川村者只顧相詑候間、其余村々相手江可致出訴と存候折柄、扱人立入相手村々心得違並ニ漁具扱人貰請、以来水行差障不申様議定書為取替候処、当七月廿三日廿四日稀成大風雨ニて栗山川出水いたし存外水湛候間、同廿六日村方人足召連水下川筋見廻り候処、相手宮川村、宝米村、両国新田、古川村重立其外之ものども、銘々地先江地獄網処々江張詰有候間驚入引揚ケ候処、宮川村新兵衛、嘉兵衛、幸次郎義、右漁具不法ニ持逃可申と争候中、相手村方之ものども罷出、新兵衛、嘉兵衛、幸次郎三人ニて、其場ニ有之候手頃之棒ヲ以、牛尾村御料所分組頭五郎兵衛忰隆助ヲ打擲いたし、大勢ニて不法ニをよび、右始末相手村役人共江及掛合ニ候処、兼而一同馴合地獄網者銘々地先之義ニて、牛尾村ニて可差綺義無之旨申之、勝手次第可致抔不当申張一円取敢不申、以来右漁具不相用水行江不差障、無難ニ御田地相続相成候様仕度段其外品々訴上、且相手方ニてハ訴訟方申立候通り漁業仕候ニ相違無之候得共、新兵衛外弐人義、組頭五郎兵衛忰隆助を打擲ニ及び候義者偽之旨其外品々申立争中扱人立入懸合候処、一体栗山川道藻草苅流之義者往古より仕来ニて、水上牛尾村、嶋村、船越村、笹本村、新井村歳々七月中、水下宝米村、傍示戸村、芝崎村、両国新田、古川村、虫生村、留下村、横芝村右八ケ村江沙汰次第無滞人足差出シ、壱村限り藻草苅流水行差支無之様致来候を、出水之時者水下相手村々ニて水中江地獄網其外漁具相下し、既ニ去々午歳宮川村始メ其外村々之ものども、数ケ処水中江地獄網打張水湛候間、牛尾村より出訴之義者申断候処、宮川村者只管御詫候間、其余村々相手取可致出訴と存候折柄、扱人立入相手村々心得違弁以来水行差障不申筈、議定書為取替罷在候処、猶又当七月中出水時ニ、不法ニ相手村々ニて地獄網相張水行相妨候ニ付、牛尾村より漁具引揚ケ候処、宮川村新兵衛、嘉兵衛、幸次郎義、右被引揚ケ候漁具可相返といたし、牛尾村五郎兵衛忰隆助と及口論ニ候段、右者打擲いたし候義ニ候共、右始末新兵衛外弐人より厚ク相詫、其余相手村々之ものどもと水行不差障筈兼而議定も有之義を違変いたし、不法相働候より今般之次第ニ至り候段者、相手一同心得違相弁今更先非後悔仕候ニ付、訴訟方江厚ク御詫、以来猶堅議定相守漁具等不相用、往古より仕来り候通り、牛尾村外四ケ邨沙汰次第水下村ニて人足差出シ、藻草苅流水行不差障様急度取締相付、今般議定書為取替、且牛尾村ニて引揚ケ候漁具其余憤合之廉々者扱人貰請、双方無申分熟談内済仕、偏ニ御威光之難有仕合ニ奉存候。然ル上者、右一件ニ付双方より重而御願筋毛等無御座候。依之為後日連印済口証文差上申候処如件
                              佐々木道太郎代官所
                              杉浦常之助知行所
                               下総国香取郡牛尾村
                                小前村役人惣代
                                 訴訟人  名主 七郎兵衛
   万延元申ノ歳(一八六〇)十月
                              伊藤又一郎知行所
                               同国匝瑳郡宮川村
                                 相手   百姓 新兵衛
                                 同    名主 重郎右衛門
                              内藤半六郎知行所
                               同国同郡同村
                                 同    百姓 幸次郎
                                 同    名主 嘉兵衛
                                 同    同  伊兵衛
                              井上式部知行所
                               同国香取郡宝米村
                                 同    百姓 重兵衛
                                 同    同  兵助
                                 同    同  久兵衛
                                 同    名主 清兵衛
                              同 知行所
                               同国匝瑳郡芝崎村
                                 同    百姓 丹次
                                 同    名主 四郎兵衛
                              荒木重左衛門知行所
                               同国同郡若梅村
                                 同    百姓 八郎右衛門忰八郎
                              右村兼帯
                              同 知行所
                               同国同郡傍示戸村
                                 同    名主 彦右衛門
                              酒井仁之助知行所
                               上総国武射郡両国村
                                 同    百姓 太兵衛
                                 同    同  孫右衛門
                                 同    名主 忠七
                               右新兵衛外九人煩ニ付代兼
                               半六郎知行所
                                     右宮川村
                                      百姓 幸次郎 印
                               右重郎右衛門煩ニ付代
                               同知行所分
                                     同村組頭 太郎左衛門 印
   御奉行所様
 
 内容に重複する部分もあって意味のとりにくいところもあるが、出水時に川下村で魚漁のための地獄網を張られると、牛尾一帯の水田に滞水して被害が多く出ることから、地獄網は使用しない協定が結ばれていた。さらに、水の流れを良くするために各村々が協力して毎年藻草刈りなどを行っているにもかかわらず、協定に違反して地獄網を仕掛け、そのうえ、網を引き掲げた若者を殴るなどのことはもってのほかであるが、仲裁人が入り、加害者も詑びているのでここに双方が和解し、奉行所へ重ねて言上するようなことはいたしません、との趣旨である。
 行路病者覚治郎のこと
 次の文書は、旅先で倒れた者に対する村役人の扱いについて、池田利左衛門家の『割元日記』に記されたものであるが、諸国巡拝の旅に出た越中国(富山県)内山村の覚治郎が笹本村(光町)で足の病気を患い、そこで手当を受けて新井村(同)から順送りに送られて来たのを、さらに次の殿部田村(芝山町)へ送り届けたときのことを記したものである。
 このようなときの順達は、笹本―新井―牛尾―殿部田―山田の各村となっていたようである。
 原文のまま見ていただきたい。
 
   乍恐以書付奉申上候
一、御領分牛尾村役人共奉申上候。当九月十日隣村新井村より輿(こし)乗壱挺送来り候間相改候処、越中国下新井川郡内山村(現富山県下新川郡宇奈月町内山か)百姓覚治郎と申もの、諸国神社仏閣拝礼ニ罷出候処、足病ニ而歩行相成兼、笹本村役人ニ而手当介抱致候得共早速全快も無之、同人義生国迠帰国致度願ニ付、右笹本村より輿仕立、村送り一札、尚国元より往来共相添、村順能継送り呉候趣ニ付、次村殿部田村江差送リ申候。
 然ル処翌十一日同村より送り返し候ニ付、如何之義と存相尋候得共、人足而已ニ而送り状も無之、相分り不申候ニ付差戻し候処、殿部田村役人より申来候者、山田村より相返し候義ニ付、右村より一札受取持参仕候間、請取順達致し呉候趣ニ付、新井村へ掛合之上村役人差添同村江送り返し申候。然ル処笹本村より今般右之段御進達之趣届御座候間、此段御届奉申上候 以上
                                  牛尾村組頭 次郎右衛門
   弘化三年午九月                           名主 五左衛門
                                     年番 伊左衛門