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東條村の誕生

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 明治の時代を迎えると、のちに東條村となった牛尾・船越の旧二村は、もと旗本の知行地であったことから、上総安房県知事柴山文平の支配下に属し、明治二年二月宮谷県が設けられるとその県域に入った。この宮谷県時代に牛尾村勝又茂右衛門は、旧幕時代の触元名主で明治政府が防捍頭取と名付けた職務に携わり、近隣四十九カ村へ政府からの通達を発する仕事を、同三年一月津宮に宮谷県支庁が設けられるまで勤めた。当時四十九カ村内の村々は、牛尾村付属何々村と称していた。
 同四年十一月印旛・木更津・新治の三県が設けられたとき新治県域に入り、同五年に、行政のための区画が定められると、第五大区第七小区に編入された。
 同六年六月に印旛・木更津の二県が合併して「千葉県」が生まれるが、当地方は新治県内に残る。
 船越村の山邊八郎左衛門が、二十一歳で自宅を教場として家塾を開き、村内子弟の教育を始めたのも、千葉県誕生と同年同月であった。
 同八年五月、新治県は廃止。茨城県が設けられると、香取・海上・匝瑳の三郡は千葉県に編入され、十二月の行政区画変更によって、牛尾・船越・新井・宝米・市野原・二又・篠本・吉田・南神崎・八辺の十カ村は、第十五大区二小区となった。
 この大区小区時代の、同九年十月八日から開校するのが「公立牛尾学校」で、牛尾村弁天社境内に、四十坪程の寺院建物を移築したものであったという。
 同十一年十一月、「郡区町村編制法」の施行によって大区小区制が廃止され、数カ村が連合して一村の行政を行う「連合村」時代になると、船越・牛尾の二村は連合して「船越村外一カ村」となり、初代戸長に船越の川島弥左衛門が就任した。
 この翌年の同十二年七月二十四日付新聞に、牛尾村生まれの桜井静が「国会開設懇請協議案」なる論文を発表して、国会の早期開設を論じている。
 同十三年には船越村でも公立学校の設立がすすめられ、山邊塾敷地に三十坪程の教場を新築して、八月から「公立船越小学校」が開校された。
 同十五年八月に、一度は連合村となった船越・牛尾の二村は分離して各々一村として独立するが、二年後の同十七年八月には戸長役場所轄区域の更定があり、「新井村外五カ村連合村」と称して、新井・牛尾・船越・宝米・二又・市野原の六カ村が連合し、戸長役場を旧新井橋の対岸新井村に新築、川島弥左衛門が再び戸長となった。
 また、同じ頃の同二十年四月に、「公立牛尾小学校」と「公立船越小学校」は形式統合して「戸上(とがみ)小学校」と改められたが、旧二校はそのまま教場として存続し、一校に統合されたのは同二十五年七月に校舎を新築してからである。そして、この学校が現在の多古第三小学校の前身となった。
 一方、「新井村外五カ村連合村」も戸長は伊東順平に代っていたが、同二十二年四月一日「市制町村制」の施行と共に新しい町村が設置されることとなり、船越・牛尾の二村が合併して「東條村」が成立した。初代村長に勝又増之助が就任し、以来昭和二十六年四月一日に多古町と合併するまで一村として運営された。