阿波名所図会 上

『阿波名所図会 上』に収録されている一部挿絵の翻刻文・解説文を掲載しています(『阿波名所図会』の研究(赤松万里 /ほか著  鳴門教育大学言語系(国語)教育講座発行)より引用)。
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木津上浦



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翻刻文
木津上浦(こつかみうら) 板野郡(いたのこほり)にあり むかしは海辺(かいひん)にて勝景(しやうけい)の地(ち)ときこへし 今(いま)なを入(いり)江存(そん)す 木津上山(こつかみやま)の金毘羅(こんぴら)権現(ごんげん)は、別当(べつとう)は長谷寺なり 毎年(まいねん)十月十日の祭事(まつり)には 近国(きんごく)より相僕(すまふ)あつまりて 賑事(にぎわう)をヽかたならず
木津上のうらにとしへてよる浪もをなじ所にかへるなりけり 菅家
 

解説文
木津上浦(こつかみうら) 現 鳴門市撫養町木津 加藤正彦
アクセス 神戸淡路鳴門自動車道鳴門ICより東へすぐ
 
図の中央に相撲が描かれています。丸い土俵があり、力士が上半身裸で褌をして、相撲を取っています。行司は扇を手に持っています。土俵の周りには、幾重もの人垣ができています。建物としては金毘羅社、観音堂、長谷寺、木津村の家々が描かれています。長谷寺の前の広い道には旅人の姿も見受けられます。また、駕籠や飛脚、犬等も描かれています。この道は撫養街道といって、吉野川沿いに撫養口から伊予に向かう道であり、当時の主要道路です。撫養街道の呼び名は、今でも使われています。街道には入り江に波が打っている様も描かれています。
 
本文の歌
本文の歌は、『後拾遺和歌集』巻第十九に
阿波守になりて又同じ国にかへりなりて下りけるに、こつかみの浦といふ所に波の立つを見てよみ侍ける 藤原基房朝臣
こつかみの浦に年へてよる波もおなじところに返るなりけり
とあり、菅家の作ではなく、藤原基房朝臣の歌となっています。
 
金毘羅権現と相撲
金毘羅権現は阿波三金毘羅の一つとして有名であり、金刀比羅神社と改称し現存しています。相撲場は図では階段を上った左にありますが、右手の方にあったそうです。現在その跡は竹薮となっています。明治以降相撲は、十一月十五日の例祭に行われていましたが、昭和三十九年より(昭和四十九年から数年間復活した)行われていません。 しかし、現在は 「わんばくこんびら相撲」としてその伝統は残っています。
また、相撲の図は他の名所図会等にもあり、『住吉名勝図会』巻之二、『河内名所図会』巻五、『紀伊国名所図会』巻之二、『本朝二十不孝』、『人倫訓蒙図彙』巻一等の図と比較してみると面白いと思います。
 
長谷寺(ちょうこくじ)
長谷寺は木末衛寺と元は言いましたが、大和の長谷寺の本尊十一面観音を勧請して作られたため、長谷寺とも呼ばれました。図と伽藍の配置が少し違いますが、今も図と同じ場所にあります。境内には推定樹齢六〇〇年のいちょうの木や「駅路寺」の石碑があります。長谷寺は江戸時代「駅路寺」に指定されていました。「駅路寺」では、 お遍路さんや泊まるあてのない旅人たちに一夜の宿を提供しました。また、他国者や反乱をたくらむ人々の監視をすることも大切な役割でした。「駅路寺」の制度は徳島独特なものであり、長谷寺の他七つの寺が指定されていました。
 
入江
入江の跡は、 田畑や住宅となって今となっては分かりません。
 
参考文献
○金刀比羅神社パンフレット ○長谷寺かわら版百日紅
○『後拾遺和歌集』 1994年 岩波書店
 
キーワード
・木津上浦・木津村・観音堂・金毘羅社・長谷寺・相撲・力士・行司・土俵・褌・扇・人垣・撫養街道・旅人・犬・駕籠

大瀧山持明院



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翻刻文
なし

解説文
大瀧山持明院(おおたきさんじみょういん) 現 徳島市寺町 森 勇樹
アクセス JR徳島駅より徒歩十分眉山着。山麓右に寺町。持明院は眉山山肌に有り
 
大瀧山持明院は天正年間(一五七三~一五九一)に板野郡勝瑞村(現・板野郡藍住町)の持明院と名西郡入田町(現・徳島市入田町)の建治寺を移転合併して建設されました。図を見ると大瀧山持明院全体が描かれており、その境内の大きさはかなりの規模であったことがうかがえます。また、入口の大門は人々から「仁王門」と呼ばれ、その立派な様子は寺を訪れる参詣者を圧倒したことでしょう。持明院の前には寺町が広がり、土地の人々にとって信仰の中心であったせいか、往来も盛んです。天保年間には石段が築かれ、大門横に水盤が新設されたりとその様子は大変豪華なものでしたが、その後の変遷により本堂の薬師堂だけが残ります。その薬師堂も昭和二十年七月の戦災で三重の塔と共に焼失、今現在の薬師堂はその後新たに建てられたものです。この持明院は昭和初年に廃絶し、方丈、庫裏は初代徳島市長の屋敷となり、今現在は天理教徳島教務支所となっています。今の持明院は当時の華やかだった面影をほんのわずかに残すだけで、閑散としています。
しかし、眉山と共に桜の名所であることにかわりありません。頂上付近の広場には桜の木が数多く植えられており、春の花見の季節には多くの市民が訪れます。当時多くの茶店が軒を連ねており、桜の時期にはさぞ繁盛したことでしょう。おりしも藩政時代、藍の好景気に沸き立つ商人達は、夜な夜な芸妓をあげて宴を張ったといいます。その華やかな様子も今となっては、思いを馳せるのみです。
大瀧山八坂神社の祇園祭は庶民から「祇園さん」と呼ばれ、楽しい年中行事の一つでした。祭りは一週間ぶっ通しであり、第一日目には大瀧山の鐘が十二時を告げると人々はお参りに出かけます。赤い幣紙の注連縄を首にかけて参詣客が帰る道程には、多くの屋台が賑わったそうです。
今の境内には焼餅屋が残っています。練った米粉をまるめ、あんをはさみこんで、鍋で平らに焼き上げる。地元の名水を使用し、こんがり焼きあがった焼餅は「滝の焼餅」と称され、今も徳島名物の一つとして庶民に親しまれています。
 
参考文献
〇「角川日本地名大辞典 36 徳島県」 1978年「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店
○「なつかしの徳島風物」 1987年 井上銀晴出版
 
キーワード
大瀧山、持明院、薬師堂、三重の塔、桜、花見、茶店、祇園祭、焼餅

大瀧山持明院眺望



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翻刻文
其二眺望(てうぼう)
上(かみ)の塔(たふ)のもとより眺望する景(けい)なり ゆゑに塔下(たふのした)に合印を加ふ (ゆゑに・原本「故に」)
山たかみあかぬすみかのいとはあれどまつの木の間にかすむ海原 光栄卿

解説文
眺望(ちょうぼう)現 徳島市駅前。駅正面眉山から同景色を見ること可能 森 勇樹
「上の塔のもとより眺望する景なり」とありますが、左手側に今は無き三重の塔が描かれていることを考えると、この図はおそらく眉山の頂上付近からみた景色でしょう。下側には二十余りの寺院からなる寺町が描かれています。寺町は天正の時代、徳島城を築く際に寺島にあった寺が大瀧山麓に移転されてできたものです。戦乱時を想定しての藩士の集合場所として、また災害時の避難場所として利用される目的だったようです。この寺町に錦竜水という名水があります。徳島城下は水事情が悪く、当時は藩認可の水売りが荷車で水を売り歩いていたといいます。大正十五年に上水道が完備されるまで、この錦竜水は住民の大切な飲料水として重宝されていました。図の中央には徳島城を中心に城下町が広がります。寺島、福島、住吉島(現在の住吉)、常三島、出来島など、三角州上にある町のせいか、地名には「島」の字のつくものが多くみられます。画面中央は新町橋です。その手前の新町は船場を中心とする繁華街で、多くの人々で賑わいました。現在でも、新町は商店街を中心に多くの店舗が軒を連ねています。橋を渡って武家邸の中央に位置する内町となり、問屋商人が多く住んでいました。その向こうには徳島城が見えます。現在、 JR徳島駅のある辺りです。城下町はその防衛のため、中心部である徳島に架かる寺島橋、福島橋、助任橋、新町橋、佐古橋などに関所が設けられ、通行人を厳しく取り締まっていたといいます。
右上には湾が広がります。富田と対岸を渡し舟が行き来している様子が描かれ、図の中央上には安宅・沖州の松原が広がっています。晴れた日にはまさに「(松林が)海原とほくさしいでて、もろこしまでも陸わたりさすかも」と感じられたことでしょう。
持明院の三重の塔に描かれている人物はもしかしたら眺望を楽しんでいる作者かもしれません。晴れわたる空と澄みきった海の青さの向こうに、作者はもろこしの国を夢見たのでしょうか。
 
参考文献
〇「角川日本地名大辞典 36 徳島県」 1978年「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店
○「なつかしの徳島風物」 1987年 井上銀晴出版
○「近世城下町としての徳島」『徳島大学学芸紀要社会科学第7巻』 1957年福井好行 徳島大学
キーワード
徳島、城下町、寺町、富田、新町、才田、津田、沖州、安宅、福島、常三島、助任、住吉、淡路島、大瀧山、錦竜水、水売り

桜間池



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翻刻文
藍(あい)は徳島(とくしま)より北(きた)の郡(こほり)にて作(つく)れり 当国(たうごく)の名産(めいさん)にして諸国(しょこく)に美とす
桜間池(さくらまのいけ) 名西郡(みやうざいこほり)にあり
鏡とも見るべきものをはるくればちりのみかたるさくら間の池 よみ人しらず
白雲は木の間にちりて春の水 浪花 李卜

解説文
桜間の池(さくらまのいけ) 現 名西郡石井町高川原 板東則子
左中央に見えるのがこの絵の中心として描かれる桜間の池です。池のほとりには桜が美しく植えられていて、古来より名勝であった事が知られます。画中の人物は、桜間神社の参拝客でしょう。画面中央の家族とおぼしき三人連れは、男性の腰の二本差しなどから武家であることがわかります。
桜間の池は古来より名勝地として知られてきましたが一時は荒廃し、文政十一(一八二八)年、藩主蜂須賀斉政賀が将軍からこの池のことを問われたことを機に、巨費を投じてその復興と保護に努め、池畔の小高い築山に石碑を建てました。この石碑は海部郡由岐浦の海中にあった巨石を七年の歳月と多くの犠牲や困難を払い、この地に建立したものであり、その形から「蛙石」と呼ばれました。また池のほとりには桜樹数百株を植えて旧に復すなどしたため、江戸時代末期には一般民衆の観光地となったといいます。参拝にこれから行く者も帰る者も名勝桜間の池の前に立ち止まり、美しく咲き誇る桜の花やそれを映す鏡のような水面にしばし目を向け、あるいは煙草に火を付け一息ついていたのでしょう。その後桜間の池は度々の洪水による変動で次第に縮小し、現在では桜間神社に残る池跡を示す県史跡がその面影を留めるばかりになってしまいましたが、水神が住み、祈願すれば病気・縁談等に御利益があるという信仰は今尚生きています。
 
当時の花見
現在では桜の花を観賞するために山野に出て遊び、または酒宴を催す行事として一般化し、思い思いに花の見頃を選んで行われていますが、もとは個人の選定によらない一定の節日があり、単なる風習や行楽の行事ではありませんでした。三月三日の節供またはその翌日を花見という地方は近畿以西の各地にあります。特に四日をシガノ悪日といって花見遊山をする土地があり、徳島市などでは、山遊びの人間のため鹿の生活が脅かされ鹿の悪日とする説も存在します。花見と一口に言っても梅のこともあれば菖蒲のことも指します。当時の人々は四季に応じて実に様々な花を愛で、あるいは行楽と結び付けて楽しんだのでしょう。
 
参考文献
○「江戸風俗集成 目で見る江戸時代 壱、弐」 昭和六〇年一〇月二〇日 国書刊行会
○「角川日本地名大辞典 36 徳島」 昭和六一年一二月八日 角川書店刊
○「新編国歌大観 第二巻 私撰集編 歌集」 昭和59年3月15日 角川書店刊
○「絵本風俗往来 東洋文庫 五〇」 1965年9月10日 平凡社刊
○「徳島県史料 第二巻 阿府志・阿淡御条目」 昭和42年1月30日 徳島県刊
○「日本年中行事辞典」 昭和52年12月20日 角川書店刊
○「増補大日本地名辞書 第三巻 中国・四国」 明治33年12月27日 冨山書房刊
○「近世風俗志」 昭和3年8月10日 文潮社書院刊
 
キーワード
・参拝客・武家の男・武家の奥方・武家の子息・煙草・キセル・女性の喫煙・男性の喫煙・煙草の火移し・つづら・編笠・つえ・旅行者(行商人?)・桜間神社・桜間池・桜(花)・池・和歌「鏡ともみるべきものを春くればちりのみかかるさくらまの池」 よみ人知らず・俳句「白雲は木の間にちりて春の水」 浪花 季卜

矢上の楠



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翻刻文
矢上(やがみ)の楠(くす) 板野郡(いたのこほり)矢上村(やがみむら)にあり 太さ十五囲(かゝへ) (ルビ「やがみむら」原本なし。「太さ」原本にルビあり、追加)
涼しさや石になる迄楠の陰 浪花 亀雄

解説文
矢上の楠(やがみのくす) 現 板野郡藍住町矢上 板東則子
挿画に描かれた矢上の楠は古来天下の名木として知られ、幹周り一七. 八メートル、樹齢一二〇〇年以上であると推定される堂々とした巨木です。楠のある春日神社はもとは春日大明神と称し、天正十四年徳島藩祖蜂須賀家政が徳島城築城と共に城下の鎮守として名東郡田宮村(一説には名西郡入田村)から現在の板野群藍住町矢上に奉還したと伝えられ、その後徳島城下の総氏神として徳島藩主蜂須賀氏が代々篤く崇拝してきました。また春日大社本文には「祭事には車楽の囃子・競馬などあり。屋台の造景工みにして、美つくせり」とあり、往時の賑わいを伺うことができます。
挿画に描かれた楠の木陰に集まる人々は春日神社へ参拝に行くところなのでしょうか、それともその帰りなのでしょうか。木陰で一息いれている間に興が高じてか有名な楠の太さを戯れに測ってみようとしているところが描かれています。
賑やかな様子で当時の矢上の楠は描かれていますが、現在の春日神社は当時のそういった華やかな面影はほとんど無く、わずかに鳥居と小さな本殿を残すのみになってしまいました。鳥居をくぐり、拝殿横を北に入ったところにフェンスで囲われた県指定の天然記念物である矢上の大楠があります。木は大きく二股に分かれ、中央に大きな窪みがあるところなど挿画と変わるところはありません。今では訪れる人も少なくなってしまった神社を、楠は昔と姿を変えることなくひっそりと見下ろしています。
 
春日の鹿の話
「一四〇〇年ほど前の、大化改新前の頃の話です。
徳島県は粟の国と呼ばれていました。徳島県には、粟の国と長い国と三好美馬国の粟三国説があったのです。この粟の国には、矢神の座位にある春日神社と富田の座位置にある春日神社がありました。この二つの神社には、大和国の春日大社の子どもである兄弟の神様が仲良く力を合わせて人々が豊かに暮らせるように取り計らっていたのです。この頃の大和国の春日大社には、神様のおつかいをする鹿がたくさん住んでいました。
このとき一頭の鹿が奈良と当地を往来したという伝説があります。春日神社の入り口にはその春日の鹿の像があり、地方では珍しい優美な石造に仕上げられています。」
(藍住町ホームページより)※現在はない
 
参考文献
○「江戸風俗集成 目で見る江戸時代 壱、弐」 昭和60年10月20日 国書刊行会
○「角川日本地名大辞典 36 徳島」 昭和61年12月8日 角川書店刊
○「近世風俗志」 昭和3年8月10日 文潮社書院刊
 
キーワード
板野・矢上・矢上の楠・女性(子持ち)・蛇の目傘・子ども・丁稚・煙草入れ・猿回し・春日神社・鳥居・笠・俳句「涼しさや石になるまで楠の陰」 浪花亀雄・扇子・風呂敷き・参拝客・松原

五百羅漢



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翻刻文
五百(ごひゃく)羅漢(らかん) 板野郡(いたのこほり)矢武村(やたけむら)にあり 別当(べつとう)は荘厳院(しゃうごんいん)地蔵寺 当寺は弘法大師の遺跡(ゆいせき)にして一本寺(いつほんじ)なり
この山に往古(わうご)より羅漢原とてありける 去る宝暦の比よりありて檀信(だんしん)を十方にもとめ 日あらすして広大の精舎を創建(さうこん)せりこの辺に筆塚とて古跡あり(「この山に往古(わうご)より」→原本「此山に往古(わうご)より」)(原本「去る宝暦の比より願主ありて檀信(だんしん)を十方にもとめ」→「願主」翻刻なし、追加)(「この辺に筆塚とて」→原本「此辺に筆塚とて」)
五百羅漢にもふのぼりて 羅漢果のとふときことをおもひけれは
夜は何処て 明けてもたのし 春の旅 浪花 露峰

解説文
五百羅漢(ごひゃくらかん) 現 板野郡板野町羅漢 棚上
アクセス 県道12号(鳴門 池田線)沿い「羅漢」より北へ50メートル
この絵は、五百羅漢を南西より描いた鳥瞰図です。
五百羅漢は、 四国八十八カ所五番札所無尽山荘厳院(しょうごいん)地蔵寺の奥の院です。絵の右下に描かれた地蔵寺は、弘仁十二年嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創したといわれる、およそ千二百年の歴史を持つ真言宗の古寺です。境内には、樹齢八百年を越えるといわれる「たらちね銀杏」をはじめ銀杏の木が多く、春には目にしみるような青葉のさわやかさを、秋には金色のじゅうたんを敷き詰めたような華やかさを呈し、広々とした中にも四季折々の美しさあふれるお寺です。
地蔵寺の本堂の裏手から北に向かって石段を上がると、雑木竹林に囲まれたかなり広い平坦地があります。古くから羅漢原と呼ばれたこの地に、藩政後期(一七七三s一七八四)には伽藍が建立され、五百羅漢像などが安置されました。羅漢とは、お釈迦さんの弟子で、小乗仏教のさとりを得、阿羅漢果という究極の境地に至った聖者のことで、その羅漢像が五百体安置されていることから、 五百羅漢という名がついたといいます。
羅漢堂の中央は釈迦堂で、優しいまなざしの釈迦如来座像の前でひざまずき、一心に経を唱える二人のお遍路さんの姿も描かれています。コの字型をした羅漢堂には羅漢像が行儀よく並べられ、右の大師堂と左の弥勒堂とともに、訪れる人たちを優しく包み込むように歓迎してくれます。この羅漢堂は 、残念なことに大正四年に消失し、現在のものはその後の再建によるものです。お堂の中に納められた仏さんの中には、自分や亡き人に似た顔があるといわれ、今も訪れる人た ちの心を慰めてくれるといいます。
絵の左下には、当寺を訪れた遍路たちを沿道まで出て歓待し、湯茶をふるまおうとする農民の姿も描かれています。この風習は「お接待」と呼ばれ、今も地元の人たちに受け継がれ、遠くから訪れた八十八カ所参りの参拝客を喜ばせています。この時代には、様々な文化や技術が遍路たちによって阿波国にもたらされたといわれ、四国八十八カ所の札所は、当時の貴重な文化交流の舞台としても、ずいぶん賑わったといえるでしょう。
 
参考文献
○『新編阿波叢書 上巻』(一九七六・十一・三十)歴史図書社
○『阿波名勝案内』(一九七九)歴史図書社
○『地形図にみる徳島地誌』(一九八四)岸本豊
○『増補大日本地名辞書第三巻 中国・四国』(明治三三 ・十一・二七)富山書房
○『角川日本地名大辞典』(一九八六)角川書店
○『板野町文化財めぐり ふるさとさんぽⅠ』(一九九八)板野町教育委員会
○「歴史とロマンのふるさと いたの』板野町教育委員会
○「奥の院五百羅漢」地蔵寺パンフレット
○「日本佛教語辞典」(一九八八・五・二〇) 岩本裕
○「阿波の歴史」(一九七五・五・一〇) 講談社
○『板野町史』(一九七二・一・一)板野町教育委員
○『板野郡誌 上』(大正十五 ・三 ・三十)板野郡教育会
○『阿波誌』(一九七六・三・三一)歴史図書社
 
キーワード
・五百羅漢・釈迦堂(釈迦如来座像)・弥勒堂・大師堂(弘法大師像)・石段・士塀・地蔵寺・ 羅漢原・釈迦堂の前でひざまずく遍路・尼と傘をさすお供の人・黒い袈裟を着た僧侶 ・杖をついた老女・石段を登る大きな籠を背負った旅人 ・飛脚・武士・馬をひく旅人・旅人を歓待する農民・境内の掃除をする庭番・銀杏・山

鳴滝



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翻刻文
鳴滝(なるたき) 美馬郡(みまこほり)幅山(はばやま)にあり 此滝(たき)三段(だん)にして 高(たか)き事二十余丈(よじやう) この滝(たき)の脇(わき)に土竃(どがま)とて 士中(どちう)の岩屋(いはや)に渕(ふち)あり 石(いし)を投(なぐ)れば 風(かぜ)を起こして雨降(あめふ)る またこの川下(かはしも)に 其形(かたち)雪洞(ぼんぼり)の如く 大きさ三囲(みかかへ)ばかりなる蜂(はち)の巣(す)あり (「この滝(たき)の脇(わき)に土竃(どがま)とて」→原本「此滝(たき)の」)(翻刻「士中(どちう)の」→原本「土中(どちう)の」)( 「風(かぜ)を起こして雨降(あめふ)る」→原本「風(かぜ)を起(おこ)して雨降(あめふ)る」) (「またこの川下(かはしも)に」→原本「また此川下(かはしも)に」) (「其形(かたち)雪洞(ぼんぼり)の如く 大きさ」→原本「其形(かたち)雪洞(ぼんぼり)の如く 大(おほき)さ」)

解説文
鳴滝(なるたき) 現 美馬郡貞光町鳴滝 日吉淳
アクセス 徳島自動車道美馬インターチェンジから剣山方面へ車で20分
吉野川の支流、貞光川に注ぐこの滝は、落差が県下一の滝として知られています。名の由来は七つの滝 (ななたき)だそうで、絵でもわかるように幾段かになって、水が落ちています。
絵の右下、貞光町から貞光川沿いに、猿飼(さるかい)村を経て剣山に至るこの山道は、たいへんに険しく、描かれている人物は皆杖をついており、やっとの思いで登って来たことがわかります。
 
鳴滝について
現在の住所は、徳島県美馬郡貞光町鳴滝となっています。大きくは二十、二十五、四十メートルの三段に分かれて貞光川へ落ちています。新緑の季節や紅葉の季節には、山々の色彩に白い一筋の滝が映えて、自然の美しさを満喫できます。ただし、実際は絵に描かれているほど水量は多くなく、雨の降ったすぐ後でないと、豪快さは感じられません。
古くから、剣山全体を含めた山岳信仰の対象であり、修験者はこの滝にうたれ、身を清めてから山へ登ったといわれています。景勝地として広く知られるようになったのは、名所図会に載ってからのことで、文化八年時の藩主蜂須賀氏も見に訪れたそうです。
 
土釜について
鳴滝の上流約五百メートルの貞光川の河床に、侵食によって甌穴(おうけつ)ができたものです。甌穴は三つが連なり、最大のものは直径が十メートルもあります。甌穴に勢いよく水が流れ込み、白い水泡を吹き上げる様が、まるで大釜に水が沸騰しているように見えるところから「土釜」と名づけられたといわれています。
薄い青緑色の堆積岩がこの周辺には多く、庭石としても珍重されています。その堆積岩が水の流れによって浸食され、様々な形の美しい渓谷となっています。そのひとつである土釜は、天下の奇観として古来より知られています。現在は県の指定文化財となっています。
 
蜂の巣
存在の確認はできませんでした。また、地元の人で言い伝えを知るものはいませんでした。本文の記述から大スズメバチの巣と考えられます。地方によっては、空になったスズメバチの巣を軒先に吊るし、魔よけにする風習があるといいます。
 
参考文献
○『角川地名事典』『新日本分県地図』(日本地学協会)
○現地の調査によるもの(取材、パンフレット、案内看板等)
 
キーワード
・さだみつ丁 ・さるかい村・滝・山道・杖をついて歩く人・笠をかぶり、杖をついて歩く人

祖谷の高橋



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翻刻文
心なき雲こそわたれ鳥すらもいゆきはばかるみねのかけ橋 権大僧都斉政

解説文
祖谷の高橋(いやのたかはし) 磯崎好則
アクセス JR土讃線祖谷口駅より祖谷渓、南日浦展望台まで一〇キロ
挿し絵に描かれた川は、剣山近くに源を発し、祖谷地方中央部を西進、吉野川へと注ぎ込む祖谷川です。この川の中流にある「祖谷渓」は、両岸が切り立った断崖絶壁で、自然の力をまざまざと見せ付ける絶景が続きます。「祖谷渓」の上流、西祖谷村善徳には、昭和三年に再建された「祖谷のかずら橋」が、往時をしのぶ観光名所として現在も手厚く保護されていますが、江戸時代には十三ものこうした橋が祖谷川とその支流松尾川にかけられていたと伝えられています。「祖谷の高橋」もその内の一つであると考えられますが、残念ながら現在その雄姿を見ることは叶いません。
「祖谷の高橋」は別名「ぼけのかけはし」と地元の人から呼ばれていたことが本文に示されており、また、図中にも「大ほけ」「小ほけ」の文字が見えますが、そもそも「ホケ」とは、谷の両側が迫り切り立った崖のあるところを指す言葉であり、「崩壊」という字があてられます。したがって、図中の「大ほけ」「小ほけ」は、歩きにくい岩場の難所を示したものとなります。また、本文末尾に「他郷の人は、怖れて渡り得ず。土人これをわたるに平道のごとし」とありますが、かつてこの地に住んだ平家の落武者や阿波山岳武士たちは、他郷者の侵入を警戒し、こうした橋を人々が渡る他郷者か否かを察知していたと言います。「祖谷のかずら橋」は、わざと横揺れするように作られ、まさかのときには切り落とされたそうですが、「祖谷の高橋」も大きな木の板がかけてあるだけのもので、いつでも取り外せるようにしてあったのでしょう。
険しい山々と深い谷、秘境祖谷での生活は、他所から来た者の目には過酷に映るかもしれません。しかし、天秤に荷を担ぎぼけの難所を行き来する人々の姿には、 そこに生きる人間のたくましさが感じられるのです。
 
備考
『祖谷山日記』の作者、徳島藩士板野.勝浦郡代の太田章三郎信圭は、文政八年(一八二五)八月、 この地を訪れ、祖谷山善徳でかずら橋を渡り、
「世をわたるわざこそげにもくるしけれかづらをひける谷かけはし」
と歌っています。(『日本の山河二六徳島 天と地の旅』)
 
索引項目
祖谷の高橋・大ほけ・小ほけ・柴の橋・雲海・川(祖谷川)・山(右側・・・国見山一四〇九米、左側・・・中津山一四四七米)・鳥(鳶)・杖をついた旅人・天秤棒に荷を担いだ地元民
短歌「心なき雲こそわたれ鳥すらもいゆきはばかるみねのかけ橋」 権大僧都斉政
 

祖谷のかづら橋



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翻刻文
祖谷(いや)

解説文
祖谷のかづら橋(いやのかづらばし) 現 三好郡西祖谷山善徳 蒲田政司
アクセス JR土讃線・阿波池田駅/バス 祖谷かずら橋下車
絵の中央を左右に横切っているのが、祖谷のかずら橋。祖谷川の谷の両岸を結ぶものです。谷底には川が流れ、両側は切り立った岩壁です。そこには、木々が生い茂っており、緑が豊かです。この橋が、人々の生活の中で、相互の交通のために重要なものであったことは、想像に難くありません。画面右上には、琵琶の滝があります。この滝と平家の落人とは、和歌「辺りにはたえず平家の物がたりいとおもしろき琵琶の滝つせ」(浪花桃苗)に詠まれているように、無関係ではないでしょう。
 
かずら橋の今昔
この絵のかずら橋は、善徳に架けられているものです。『西祖谷山村史』によると、近代になって一時姿を消したが、昭和三年三月に復活したということです。
絵の橋と現在の橋との相違点として、次の二点が指摘できます。一つは、絵の橋は蜘綱が少ないということです。現在の蜘綱は、両側から伸びている綱が中央部で交差するほどです。もう一つは、絵の橋の欄干が低いということです。現在の欄干は、手すりとして利用するのに適当な高さとなっています。
もっとも、これらは描き手が故意に簡略にしたのかも知れません。橋の上を行き交う人物の様子がはっきりと描かれていることからも、そのように推測できます。これ以上、綱を張りめぐらせたり、欄干を高くしたりすれば、絵画としては、見にくくなるという可能性も考えられるでしょう。
また、「この橋、五尺ばかりに切りたる樫を二にわりて横とし、藤蘿を経とし布織るごとくして織目の広程五、六寸四方あり。これは風吹きぬきて、橋左右へふらざるためなり」という記述があるので、歩いていると、織り目をとおして足下に下の川を見ることができたと考えられます。絵では横木が密に並んでいるようですが、実際には隙間があったことでしょう。
画面右上の琵琶の滝とかずら橋との中間にたなびいているのは、かすみでしょうか。あたかも遙か山の上に滝があるかのようですが、実際にはかずら橋のすぐそばにあります。
現在では、橋や滝の周辺には土産物の店が並んでいます。その昔、人々の生活に即していたかずら橋。それを渡るのは、今や観光客です。
 
参考文献
○「西祖谷山村史」昭和60年10月 徳島県三好郡西祖谷山村
○「新版 徳島県の歴史散歩」 平成7年7月 山川出版社刊
 
キーワード
・かずら橋・琵琶の滝・祖谷渓・祖谷川