阿波名所図会 下

『阿波名所図会 下』に収録されている一部挿絵の翻刻文・解説文を掲載しています(『阿波名所図会』の研究(赤松万里 /ほか著  鳴門教育大学言語系(国語)教育講座発行)より引用)。
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灌頂が滝



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翻刻文
灌頂(くはんぢやう)が滝(たき)
みのりをも照らす朝日の水煙うち詠めよや灌頂の滝 浪花 亀雄
勝浦郡(かつうらこほり)鶴林寺(くはくりんじ)の奥の院慈眼寺(じけんじ)山(やま)にあり この滝半(なかば)にして巌(いはを)にあたり 水(みづ)くだけて霧(きり)のごとくなりたるが 目に映(ゑい)じて五色となり 其中に不動(ふどう)尊現じ給ふ 土人(どにん)御来迎と称す(割注) 弘法大師この滝にて灌頂(くはんぢやう)し給ひければとて 灌頂が滝となんいへり
千尺の嶮岩の半腹に木の卒塔婆立たり 弘法大師投げ給ふとぞ これを投卒塔婆と名く

解説文
灌頂が滝(かんじょうがたき) 現 勝浦郡上勝町北東端 森勇樹
アクセス 国道五五線南下、勝浦川上流へ。途中慈眼寺への立て札有り。
図は灌頂ヶ滝を中央に、慈眼寺へと参詣する人々を描いています。滝の名は弘法大師がこの滝にて灌頂したことに由来しています。この滝、別名「旭の滝」といい、直下七十メートルの壮大さは見るものを圧倒します。水流が少なく霧散しやすいので、晴天の午前八時から十時頃にかけてその飛沫が五色の虹となって見え、これを人々は「不動の御来迎」として厚く信仰しているそうです。現在、滝正面には不動尊と水を司る龍神がまつられています。図にあるように険しい山道が続き、当時としても難所であったことは想像に難くありません。現在、この方面は舗装されており、当時に比べれば格段に交通の便も良くはなっていますが、まだまだ自然のままに木々が生い茂る場所です。周辺にもいくつか小さな滝があり、夏には行き交う人々が涼を求めて一息いれたことでしょう。秋には色づいた紅葉が滝にかかり、その景色はまた格別です。
滝の前をぬけてさらに頂上を目指すと、慈眼寺へと達します。四国霊場八十八ヶ所第二十番目の札所、鶴林寺の奥の院です。この寺の奥には県の天然記念物である細長い亀裂形の鍾乳洞(穴禅定)があり、中に巣くっていた悪龍を弘法大師が法力によって封じ込めたという伝説が残されています。その鍾乳洞をくぐって祈願すると、願いが成就するとされ、今も多くの人々が参詣に訪れています。境内にはつつじ、山吹、紅葉が丹精されており、風雅なたたずまいです。また、寺の境内からの眺望は今も緑深き静かな山里の趣きを残しており、見るものにしばし時を忘れさせます。当時の難所も今は車で通行できますが、人里離れたこの地は、霊験あらたかなる行場ということもあいまって、訪れる人々を厳粛なる気持ちにさせるでしょう。
 
参考文献
○「角川日本地名大辞典36 徳島県」 1978年「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、角川書店
 
キーワード
灌頂ヶ滝、旭の滝、慈眼寺、鶴林寺奥の院、穴禅定、不動尊、龍神、参詣、上勝町、

日峯眺望



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翻刻文
日峯東瞰すれば横津に対す 暁に闢く松林気的の浜 兜嶼煙の凝り雨脚に擬し 和田の灘渺として天垠に浴す
船を駆るに撃汰帆を凌乱す 岸は恕潮と闘ひ巖隠燐たり 誰か問ふ景光何れの所にか比せん
戯れに譍ふ更に有り洞庭の臣と
東武賢木春由

解説文
日峯眺望(ひのみねちょうぼう) 現 小松島市中田町、徳島市大原町 棚上靖代
アクセス 徳島駅より小松島市営バス 日赤病院前下車徒歩二十分。
日峯は、徳島市の中津峯・阿南市の津乃峯とともに、古くから阿波三峯と呼ばれる山で、この絵は、ここ日峯の山頂から東を臨んで描かれた鳥瞰図です。
絵の左下に描かれた日峯神社の境内からの眺めはまた格別で、南方には小松島の町並みが一望でき、東方には遠く紀伊水道につながる小松島湾を見渡すことができる、本県屈指の眺望を誇る場所として、今日も多くの人たちが訪れています。絵には、この日峯神社の境内から海を眺める三人の人物が描かれていますが、この人物こそ絵を描いた絵師一行ではないかと想像されます。
遠く紀伊水道に面して北に長く延びる砂嘴が和田岬で、その上空を飛ぶ海鳥たちの姿も描かれています。このあたり一帯は沿岸まで松が生い茂り、和田の松原と呼ばれています。また、和田から横須、小松島浦にかけての海岸一帯も松におおわれているため比較的涼しく小松島湾は波も穏やかで、小舟に乗り釣り糸を垂れる漁師の姿が写実的に描かれています。また遠浅続きの浜では、地引き網漁が盛んに行われ、今もこのあたりは、しらす干し(釜揚げちりめん)の特産地になっています。
小松島湾に浮かぶ兜島のたもとには、弁財天をお祀りした祠がありますが、現在は島ではなく陸続きになっています。また烏帽子岩は、その名のとおり烏帽子の形をした岩で、屋島での合戦の頃、この地に上陸した源義経公が休息時に自らの烏帽子を掛けたという言い伝えが残っています。 しかし、安政年間の地震で崩壊し、今は記念の碑を残すのみとなっています。
絵の中央下に描かれた川は、勝浦川の旧分流路である現在の神田瀬川で、かつては日峯神社に参詣する際には、この川に架けられた木の橋を渡っていかなければなりませんでしたが、現在は大半が埋め立てにより陸続きとなっています。絵の右下の小松島浦は、家屋敷が多く立ち並ぶこのあたりでは最も栄えた町で、現在の小松島市中心部にあたります。
 
参考文献
○「小松島市史 風土記」 (昭和五十二・二・二十五) 徳島県小松島市役所
○「小松島市史 舊小松島町の巻」 (昭和二十七・十・三十) 小松島市役所
○「ハロー小松島 ふるさとの歴史探訪 東四国国体記念版」(平成五・十・二十四)第四十八回国体小松島市実行委員会
○「花水木随想郷土誌」 平成十一・五・十六 田村直一
 
キーワード
・日の峯・日の峯神社・鳥居・石段・和田岬・和田の松原・和田浦・兜島・弁財天・烏帽子岩・横須の松原・小松島浦・中田村・松林・小舟に乗った漁師・和田岬上空を飛ぶ海鳥・橋・小松島浦の家屋敷・漁村・橋を渡る人たち・町人・神田瀬川・中田村の百姓・日の峯神社の境内に立つ絵師一行

天馬石



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翻刻文
天馬石(てんまいし) 勝卜郡(かつらこほり)田野村(たのむら)にあり
古来(こらい)土人(どにん)の説(せつ)に 天より馬降(むまくだ)りて石(いし)となる 此故(ゆへ)に名(な)となす 或説(あるせつ)に 宇治川先陣(せんぢん)のとき 梶原(かじわら)が乗(のり)たる池月(いけつき)といへる名馬(めいば)
佐々木(さゝき)が武略(ぶりゃく)にて摺墨(するすみ)に乗(のり)こされたるを憤(いきどふ)り 此所に来(きた)り死(し)して石(いし)と成(な)る
背をこすとゆふ立雨に似た物はてんからふつて来た馬の石 浪花 桃苗

解説文
天馬石(てんまいし) 現 徳島県小松島市芝生町宮前 藤岡値衣
アクセスJR徳島駅から小松島市営バス「立岩・菅原」行きに乗車、「芝生」で下車。所要時間約40分
絵では、道の真ん中にある馬がうずくまった形の「天馬石」を囲んで、男女の旅人・背に荷を負った行商人が、話をしているところが描かれています。神官から「この石受踏むと、腹痛を起こしますよ。」などと聞かされて、女が連れの男に「ねえ、あんた、ちょいと試してみたら?」などと言っているのでしょうか。少し離れたところで、天秤棒の両端に荷物を下げた行商人がちょっと足を止めて、にこにこと四人の話を聞いているのも、和やかな光景です。
 
「天馬石」について
「天馬石」は、小松島市芝生町宮前の旗山と呼ばれる小高い丘の東北部の麓に現存しています。しかし、絵のように、道の真ん中にあるわけでは有りません。また、絵では横に平べったい石のように見えますが、現店残っているものは、長い年月の間に石が風化し崩れたらしく、縦約百三十㎝、横約三百㎝、奥行き約五十㎝の薄い石です。表面には波が入り、苔むしています。少し離れて見れば、頭を西にして馬がうずくまっているように見えないわけでもありません。小学生一人ぐらいなら、乗っても大丈夫のようです。
 
「旗山」
「天馬石」の後万にある旗山は、元暦二年二月阿波に上陸した源義経が源氏の白旗を掲げたところと言われています。ここに鎮座する八幡神社の棟札には、元暦三年とあります。平成四年には、騎馬像としては日本一の大きさであるという義経像が頂上に建てられた、義経伝説ゆかりの地でもあります。「天馬石」は名馬磨墨(摺墨)と宇治川の先陣争いをして敗れた名馬池月がこの
地に来て、死んで石に化したと言われています。また、別の一説では、天から馬が降りてきて石になったとも言われます。古来、中国には天馬の思想があり『史記』の「大宛列伝」にも記されているところです。その思想は、日本にも伝わってきました。戦いに勝つためには名馬が不可欠と考えるのは、古今東西問わないというところでしょうか。
 
参考文献
○「義経阿讃を征く」 田村直一 平成元年十一月三日 徳島県教育印刷株式会社
○「阿波文学散歩」 桂富士郎 平成一一年六月十七日 徳島新聞社
○「小松島市史 風土記」 小松島市史編纂委員会編 昭和五二年二月二五日 小松島市役所
 
キーワード
天馬石・神官・旅の男女・行商人・松・杖・笠・天秤棒・傘・荷・手拭い

舎心山太龍寺



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翻刻文
舎心山(しゃしんざん)太龍寺(たいりうじ)
をんの声を爰にとどめて秋の風 浪花 法策

解説文
舎心山太龍寺(しゃしんざんたいりゅうじ) 現 阿南市加茂町竜山 永田美代子
アクセス 国道55号線 国道195号線を経由し約50㎞
太龍寺は、四国霊場代二十一番札所であり、那賀郡鷲敷町の海抜六百メートル余りの太龍寺山の山頂近くにあります。
この絵は、現在の建物や橋などの配置とはかなり差異が見てとれます。右頁中央よりにある塔は、現在はなくなっている三重宝塔か、もしくは多宝塔のどちらかでしょう。また大師堂と中興堂の位置も逆になっています。現在の本堂、弥山、手水舎、求聞持堂、弁才天、鐘楼門なども描かれていません。
中興堂の横の橋は御廟の橋と呼ばれ、大師堂の奥には御廟があります。この御廟の橋、拝殿、御廟の配置は、高野山の奥の院と同じ配置であることから舎心山は西の高野山とも呼ばれ、宗教的に高い位置づけにあったことも想像に難くありません。このように太龍寺が重要視されたのは空海と深い縁のある寺であったからでしょう。左頁中央の舎心山は舎心嶽とも呼ばれ、ここで弘法大師空海が七九三年に百日間にわたって虚空蔵求聞持法という苦行をした場所であると伝えられています。また空海の空の字を思いついた場所でもあり、太龍寺の中で重要な霊域とされています。その武骨岩肌からは、現代に生きる私達にも空海の修行が過酷なものであったのだろうということがが伺えます。また太龍寺から舎心嶽に向かう途中には、ミニ八十八カ所がおかれています。
太龍寺は険しい山肌と眼下に雲を臨むような厳しい自然環境の中に立てられた寺ですが、昔も今も信仰心篤い人々が多く訪れる場所でもあります。
 
その他
ロープウェイでは、ガイドさんの説明が聞け、遠方まで視界が開けているため鶴林寺も遠くに臨むことが可能です。途中には日本オオカミが生息していたといわれる場所もあり、その姿が再現されています。ロープウェイは、高額であるが利用価値は十分にあるでしょう。
 
キーワード
舎心山 階段を上る人 三重宝塔もしくは多宝塔 三重宝塔もしくは多宝塔を参る人々 太師堂 御廟 中興堂 御廟の橋 お遍路さん
 
参考資料
太龍寺のパンフレットや立て看板

津峰の眺望



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翻刻文
津峰(つのみね)(峯)の眺望(てうぼう)

解説文
津峰の眺望(つのみねのちょうぼう) 現 阿南市津乃峰町東分三四三番地 永田美代子
アクセス 徳島市内より国道五五線を南下。JR見能林駅過ぎを右折
絵に見られるのは、現在の橘湾の姿です。橘湾は、とても趣があり阿波の松島ともいわれている名勝地です。小さな島々が点在し、入り組んだ入り江も見て取れるこの湾は、今からおよそ一万年前にできたと考えられているリアス式海岸で、現存の島々はかつての山の頂であったところであると考えられています。
現在の津乃峰神社から見る絵の風景は、埋め立て地も多く、発電所をはじめ数々の建造物や道路が点在しています。
絵の左下にある橋は、かつては一銭橋と呼ばれており塩田のある新浜の方につながっていましたが現在は存在していません。絵中央下の神社は塩竃神社といい、実際ではエビス山と長浜との間に鎮座しています。塩竃神社は古くから、エベッサンやギオンサンとも呼ばれ、周辺の住民に馴染み深い神社として親しまれ、その神社の周囲を囲むように植えられている松林はミノ林と呼ばれています。
コカツシマは、現在では山が崩され埋め立てられており発電所になっています。ハダカジマの北東にある小さな島は、トビシマで、画面外になってしまいますがノノシマの西には舞子島があります。弁天島には、アコウなどの熱帯で繁殖する植物が多く、それらは国の天然記念物になっており、また橘湾では、四十年程前にはタコ突きが盛んであったことなどから考えると自然の豊かな場所であったと言えるでしょう。
なお、津乃峯神社は、第四五代聖武天皇神亀元年(千二百余年前〉に、賀志波比賣大神を祭神として創立されました。
 
その他
土佐日記の中で「橘の 浦の夕凪 潮ささば 伊島の沖ぞ 遠くなりゆく」と詠まれている場所でもあります。
津乃峯神社のお社の手前にはお土産屋さんがあり、そこのおじさんとおばさんは古くからその地に住んでおり、詳しい話が聞くことができました。
 
索引項目
野々島・ハダカ島・アコメ浦・キレト・大潟・ウルメ島・トピ島・長島・新浜・高島・小勝島・長浜・エビス山・一銭橋・塩田・塩竃神社・弁天島・竜王崎・ヘザキ・津乃峰・橘湾・ミノ林・水田・船・農作業する人々・津乃峰神社に参る人々
 
参考資料
津乃峰神社におかれていた阿南市教育研究所の看板より
現地の人からの聞き取り

石門



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翻刻文
石門(せきもん) 那賀郡(なかこほり)大原村(おおはらむら)にあり 両巌(りやうかん)たかく峙(そばたち)て門(もん)をなし下(した)に淵(ふち)ありて景色(けいしやく)すこし
打合し石の雫や寒の月 浪速 李卜

解説文
石門(せきもん)
アクセス JR桑野駅よりバスで十分 桑野川堤防より徒歩二十分 磯崎好則
石門は阿南市長生町にあり、桑野川より津峰山に向って一キロ程登ったところに位置しています。現在石門公園として整備され、藤の花の咲く五月頃には多くの見物客がこの地を訪れています。
高さ三〇米程の鋭く尖った岩山が、両岸より谷を塞ぐようにそびえ立ち、その名のとおり石の門となって水の流れを堰き止めています。堰き止められた水の流れは、石門を境に上流が大きく、下流が小さい池となり、ちょうどひょうたんの形になっているところから、地元では「ひょうたん池」とも呼ばれています。池の最下流部には、石を積み上げた堤が築かれており、石の間から流れ出す水は、しぶきをあげて淵に落ちています。石門の奇岩と周囲の樹々が、澄んだひょうた
ん池の水面に映し出される様は、古来よりの阿波の名勝にふさわしく、まさに清閑の地の風情を今に伝えるものです。
挿絵の右奥に描かれた山は、阿波三峰の一つに数えられる津峰山(標高二八O米) であります。その山頂には、鎮護国家、延命長寿の神を祀り、古来より民衆の信仰を集めた津峰神社があります。図中人々は堤の上を往来し、さらに石門をくぐって津峰山へ向っていますが、ここは古い信仰登山道で、堤の石組みもそのために築かれたものと思われます。現在津峰神社への参詣は、昭和四二年に開通した津峰スカイラインよりの登山、がメインとなっています。しかし、それ以前には多くの人がこの石門を通って津峰神社に参拝していたことを地元の方からうかがいました。ひょうたん池の岸辺に立つ道標には、「幾億の足跡忍ぶ石門の前にそびえる津乃峰は四方の人の安らぎの峰」(長生歩行会設立、平成八年二一月吉日)
とあり、往時の石門往来の活況と信仰の厚さが偲ばれます。
 
参考文献
○ 「大日本地名辞書第三巻中国四国」 明治33年12月27日 富山房刊
○「角川日本地名大辞典 36 徳島県」 昭和61年12月8日 角川書店刊
○「日本図誌大系四国」 昭和50年6月30日 朝倉書店刊
○「郷土資料辞典三六 徳島県 ふるさとの文化遺産」1998年7月1日 人文社刊
○「阿波風土記 徳島郷土双書4」 昭和39年6月25日 徳島県教育委員会出版部刊
○「日本の山河二六徳島 天と地の旅」 昭和54年8月10日 国書刊行会刊
○「新編国歌大観」 1983年 角川書店刊
○「コンパニオン道路地図帖 四国編」 昭和62年6月 ワラヂヤ出版刊
○「徳島県阿南市ガイドマップ」 英公社刊
 
キーワード
・石門・石組み・杖をついた旅人・藁葺きの民家
俳句 「打合し石の雫や寒の月」 浪花 李ト

阿波の小島



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翻刻文
阿波(あわ)の小島(こじま) 那賀郡(なかこほり)椿泊(つばきとまり)浦(うら)にあり
万葉に 百伝のはまのうらはをこきくれと阿波の小島は見れとあかぬかも 人麿

解説文
阿波の小島(あわのこじま) 磯崎好則
アクセス JR阿南駅より椿町までバス四十分、椿泊まで徒歩十五分
椿泊浦は、四国最東端で有名な蒲生田半島とその北側の椿半島に挟まれた、西に深く入り込んだ湾で、阿南市東部の室戸阿南海岸国定公園に含まれる景勝地であります。
挿絵は、椿半島の東端部に位置する椿泊湾から蒲生田半島を望んだ図であります。図中央の「小じま」は半島中部の小集落名であります。また図右下の「かりまた石」は鏑矢の矢先に用いられる矢じり、「雁股」にその形が似ていることからこう呼ばれています。この辺りはリアス式の沈降性海岸で、出入りの多い半島の海岸線と紺碧の海が、南国の美しい景観を成しています。またこの地の砂浜は、六月から八月にかけてアカウミガメが産卵のため上陸することで知られ、「蒲生田のアカウミガメ産卵地」として県の天然記念物に指定されています。
 
阿波水軍の根拠地、椿泊
椿泊は、陸路での行き来が困難な半島の突端に位置する小さな漁村であります。ここはかつて阿波水軍の根拠地として栄え、水軍総帥森甚五兵衛代々の居城松鶴城の俤を、現在の椿泊小学校の石垣に偲ぶことができます。森氏は初め鳴門の土佐泊に居を構えていましたが、二代目村春の時、徳島藩主蜂須賀家政からこの地を拝領し移ってきました。阿波水軍は、文禄・慶長の役や大坂の
陣で活躍し、その名を全国に知られることとなりましたが、蜂須賀家入国後も参勤交代や藩主の子女の輿入で船団の指揮をとるなど、藩の水軍に関する覇権を一手に掌握していたといいます。また、毎年歴代藩主が鷹狩や釣のために森家を訪問していることや、南方への巡視の際に必ず森家に泊まったことも記録に残されています。
(「阿波年表秘録」「大日本地名辞書第三巻中国四国」所収)
現在は舗装された道路が半島の先端まで伸びて、民宿や保養施設の立ち並ぶ観光地として知られ、多くの人がこの地を訪れています。
 
参考文献
○「大日本地名辞書第三巻中国四国」 明治33年12月27日 富山房刊
○「角川日本地名大辞典 36 徳島県」 昭和61年12月8日 角川書店刊
○「日本図誌大系四国」 昭和50年6月30日 朝倉書店刊
○「郷土資料辞典三六 徳島県 ふるさとの文化遺産」1998年7月1日 人文社刊
○「阿波風土記 徳島郷土双書4」 昭和39年6月25日 徳島県教育委員会出版部刊
○「日本の山河二六徳島 天と地の旅」 昭和54年8月10日 国書刊行会刊
○「新編国歌大観」 1983年 角川書店刊
○「コンパニオン道路地図帖 四国編」 昭和62年6月 ワラヂヤ出版刊
 
キーワード
・小じま・弁才天しま・かりまた石・椿泊・椿半島・蒲生田半島
 
和歌
「百伝のはまのうらわをこきくれと阿波の小島は見れとあかぬかも」 人麿

母川の鰻



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翻刻文
母川鰻(ははがはのうなぎ) 海部郡(かいふこほり)園瀬村(そのぜむら)の山際(きは)にあり(割注) 此川 一方(いつほう)は山 一方は田地なり 其山の巌(いわ)の下(した) 淵(ふち)にして底(そこ)を知らず 此大魚 岩(いわ)の下(した)を穿(うがつ)てすむならん 一尾(び)の親鰻 此巌の洞(ほら)にて(原本に表記あり?)大(ふと)り 出(いづ)る事あたはず 昔時(そのかみ)いでんとして 岩をせりわりたればとて せりわり岩と名(なづ)く 今 常にとるところの鰻は 大(ふと)さ一尺五六寸長(なが)さ三尺四五寸なり 常に小魚を追(お)ひ これを呑(のみ)て食(じき)とす

解説文
母川の鰻(ははかわのうなぎ) 日吉淳
アクセス JR牟岐線海部駅より徒歩三分 大鰻水族館「イーランド」
絵の中心に描かれている大鰻の腹部には三角形のうろこのような模様があるのですが、実際の大鰻にはこのような模様はありません。絵はこの鰻の特異性を強調したものと考えられます。
描かれた波の様子から、川の流れが速いように見て取れますが、淵ということからわかるように実際は、波など立たない緩やかな流れとなっています。また、右上の岩の割れ目が、せりわり岩であると思われますが、これも実際とは、形が大きく異なっています。
以上のことから、この絵は、絵師が実際に見て描いたのではなく、誰かから話を聞いて、想像しながら描いたものではないかと思われます。
 
母川の鰻
現在の海部郡海部町の海部川支流、母川は昔からオオウナギの生息地としてしられています。『重修本草網目啓蒙』三十無鱗魚に「阿州母川ノウナキハ、囲三尺余、長サ六尺許アリ、是ハ江鰌(かわどじょう) ノ類ナリ」という記述がみられます。
オオウナギは淡水に棲む熱帯性の魚類で、虫、小魚、カニなどを食べるため、別名「カニクイ」とも呼ばれています。日本での生息は珍しく、海部町のほかには、長崎や和歌山など数ヶ所でしか発見されていません。普通のウナギと比べると、長さの割に太くて、ずんぐりとした印象を受けます。体は黒と灰色の斑点に覆われていて、食べるとおいしいだろうとは思えません。また、本文の記載によると、母川のウナギはすべてがオオウナギのようですが、実際はめったに捕れない貴重な魚で、大正十二年に国の天然記念物に指定されています。
大うなぎ水族館「イーランド」の水槽に現存するオオウナギは、外洋で捕獲された稚魚を育てたもので、母川で捕獲されたものではないそうですが、体長二メートル、体重二十キロ、胴回り六十センチメートルを超える大物です。
 
せり割り岩
母川が海部川に合流する地点より、三百メートルほど上流に位置しています。川が小高い岩山にぶつかり、山肌を削りながら蛇行して淵となった所です。オオウナギの生息地として、国の天然記念物に指定されているため、このあたりは護岸工事がされていなく、昔のままの景観が残されています。
せり割り岩にまつわる伝説に、次のようなものがあります。
「昔この淵の巌の洞に棲んでいた親鰻が、洞の中で大きくなり、出られなくなってしまった。しかし、子鰻たちがせっせと餌を運ぶうちに、さらに大きくなった親鰻は、岩を割って出てきた。そのとき、割れた岩が、せり割り岩と名づけられた。」大きな岩山の右端が、淵の中から幅一メートルほどに渡って垂直に割れて、蔦や苔に覆われている様子は、その底には本当に大
鰻が棲んでいるような気持ちを自然に起こさせます。
 
参考文献
○「古事類苑』『角川地名大事典』『新日本分県地図』(日本地学協会)
○現地の調査によるもの(イーランドの資料、パンフレット、案内看板、取材)
 
キーワード
・うなぎ ・小魚 ・川 ・せり割り岩

母川の蛍



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翻刻文
母川(ははかは)の蛍(ほたる) 海部郡(かいふこほり)園瀬村(そのせむら)にあり
蛍(ほたる)の大(おおき)さ寸にみてり 此蛍 関(せき)の柵(もつひ)にとまり また水軍のまはるにしたがひ 或(あるひ)は飛(とび)或はとまり また丸くかたまりたる 蛍谷(たに)より飛び来(きた)り 川の上にて四方(よも)にちり また数(す)万の蛍 両方より飛きたり 此所にて合戦(かつせん)をなす事年ごとなり

解説文
母川の蛍(ははかわのほたる) 現 徳島県海部郡海部町野江 藤岡値衣
アクセス JR徳島駅より牟岐線普通列車で約二時間二〇分。「海部」下車。
画面の右上から左下にかけて母川の流れが描かれており、その上を無数の蛍が飛んでいます。また、右下には裕福そうな町人の一家(夫婦とその娘・息子)が、また、右上には夫婦連れと見られる二人が、仲睦まじく蛍狩りをしています。
蛍籠には、もう何匹も蛍が入るのかも知れません。持ち帰った蛍は、家の暗がりに置かれたり、庭に放されたりするのでしょうか。
 
母川と蛍
海部川の地下水が吹き上がるという母川は、岸から水底が見えるほど水が澄んでいます。その清流にカワニナが発生し、それを餌にして蛍の幼虫が成長するのです。母川は、源氏ボタルの生息地として、昔から有名でした。源氏ボタルは、体長十二~十八㎜で清流を好みます。一日の農作業を終えて家路ををたどる頃、川面を飛び交う蛍の光は、疲れた人々の心を慰めるものだったことでしょう。ところが、農薬や乱獲のために、昭和四十年ごろから、蛍が急激に減少していきます。そこで、なんとか母川の蛍を守り増やそうと、海部町の若者が中心となって保護に乗り出しました。蛍の分布・習性などの調査を進め、現在では、源氏ボタルや平家ボタルが、最盛期には数千匹の乱舞を見せるようになったのです。
 
現在の「ほたる祭り」
毎年六月下旬に開かれる「ほたる祭り」は、今年(平成一一年)で十八回を数えます。期間中は、『都名所図会』の蛍狩りに描かれるような高瀬舟が母川を行き来し、川岸には多くの夜店が並んで、野点や笹舟作りなども行われます。笹舟が流れていく横で大きな水車がゆるりと回り、なんとものどかな風情です。午後八時を過ぎると、川岸の木や葦に何百という蛍がとまり、また離れては川面を飛び交う光景が見られます。それは、さながら幻想の世界に迷い込んだかのようです。
 
「母川」にまつわる昔話
その昔、この地方に日照りが続いたとき、親孝行な子供が病弱な母親のために、岩かげに池を掘って、水を汲み上げていました。ちょうどそこに弘法大師が通りかかって、その様子をご覧になり、子どもの孝心をほめて、その清水がいつまでも涸れないようにと祈られたそうです。それから、その水はどんな日照りにも涸れることなく、いつも清らかに澄み、「母川」と呼ばれる流れになったと言われています。
 
参考文献
○「日本名所図会 8 京都の巻」 竹村都俊則編 昭和五六年六月一〇日 角川書店
○パンフレット「海部町」 海部町役場地域振興課作成
○パンフレット「蛍まつり」 海部町役場地域振興課作成
 
キーワード
・母川・蛍・関の棚・丞車・家族連れ(去婦・娘・息子)・夫婦連れ・蛍籠・団扇・扇子・竿の先に団扇をつけたもの・向こう岸川沿いに生えた木・道端の草

鈴峯山円通寺



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翻刻文
鈴峯山(れいほうさん) 圓通寺(ゑんつうじ) 海部郡宍喰浦(しゝくいうら)にあり
當寺(たうじ)の濫觴(らんじやう)は 応安三年の頃 櫛川村(くしかはむら)の猟師(かりうど)、獅子(しし)のぬたまちせしに鈴(すず)の音(をと)を聞てたづね行に 今の三尊石(さんそんせき)の間(あいだ)に、観音(くはんをん)竜馬(りうめ)に乗(の)り鈴(すず)を持(もち)給ふを拝(はい)す。猟師発心(ほつしん)して 堂(たう)をたて大悲尊(ひそん)を安(あん)ず 今なを堂の側(かたはら)に三尊石とて大石あり また其脇(わき)に小庵(あん)ありて竜宮(りうぐう)の名器(めいき)なりとて茶釜(ちやがま)をかけたり 水六升を納(おさ)む 此釜に魚(うを)の形(かたち)あれども 常に用ゆれば すみつきて見へかたし 其すみをあらはんとて水をかくれは たちまち雲を起(おこ)して雨(あめ)降(ふ)る 此鈴峰は高程(たかさ)十八丁 この山に相対(あいたい)するものはただ南海(なんかい)にして 一嶌(いつとう)も見る事なし 此宍喰の湊(みなと)に 七名石 海中にあり 大山権現の拝殿(はいでん)に明朝(みんてう)の鐘(かね)をかけたり 其銘に日く 明昌七年丙辰四月日鋳成金鐘重六十七斤徳興寺懸排普勧丹那同共心聖躬萬歳上棟梁戸長金仁鳳副煉梁延甫慶讃陳蕃孝

解説文
鈴峯山円通寺(れいほうさんえんつうじ) 現 海部郡宍喰浦 鎌田政司
アクセス 阿佐海岸鉄道宍喰駅下車
絵では、かなり遠くまで山が続いているように見えますが、実際には、鈴峯山頂の少し手前に円通寺はあります。麓の入り口から一・九㎞の山道を歩いたら、ここまでたどり着くことができます。山道を登りきったところは、画面右下の隅のあたりでしょう。敷地面積としては、描かれているほどの広さはありません。画面の右は東で、手前が南になります。山頂へと続く道は、寺の東にあります。
 
鈴峯山の伝説
挿図の本文中には、「當寺の濫觴」に「猟師」が「鈴の音を聞てたづね行に 今の三尊石の間に観音竜馬に乗り鈴を持給ふを拝す」とあります。ところが、これは、今に残る伝説とは多少異なります。『宍喰町史』によると、猟師は老いた白猿を追いかけるうちに鈴の音の響く岩窟に至り、その中で「海神のみ子」の声を聞き、東が白むとそこに観音像を見たということです。その岩窟は寺の西側に位置し、絵の中では、茶釜のある建物の奥のあたりです。いずれにしても、鈴峯山が鈴にちなむ霊峰であるということに変わりはないと言えましょう。
また、「竜宮の名器」という茶釜については、この地が海と深くかかわっていることを物語っているように思われます。同上書『宍喰町史』には、嵐の中でも竜神の加護で消えないといわれる竜灯がともって、舟人や旅人の道しるべとなったことが記されています。
 
七名石と大山権現の鐘
本文の最終部分には、宍喰の湊に七名石があることと、大山権現に鐘がかけられていることの記述が見えます。両者とも、鈴峯山とは異なる場所に存在することを示していますが、併せて紹介したということでしょう。
鐘をかけていたと思われる大山神社は、塩深の地にあります。そこは、鈴峯山ではなく、宍喰川に沿って上っていったところです。なお、今は、大山神社にこの鐘はありません。東京国立博物館の所蔵となっています。
 
参考文献
○「宍喰町史」 昭和61年3月 宍喰町教育委員会
○「新版徳島県の歴史散歩」 平成7年7月 山川出版社刊
 
キーワード
・鈴峯山・円通寺・三尊石・茶釜・七名石・大山権現・鐘

轟滝



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翻刻文
轟滝(とどろきのたき)
高根よりおちてくるまのとヾろきに岩うちくだけひヾく滝かも 権大僧都高政
懸泉不可量 在彼粟州陽 清作雲声至 乾坤似個轟 泉州横塘則

解説文
轟滝(とどろきのたき) 加藤正彦
アクセス 阿波海南駅から町営バスで轟神社前下車徒歩十分
深山幽谷を思わせる絵です。真中に轟の滝が描かれ、滝壺査は渦を巻いています。辺りの山には雲が湧き出でています。見物人が四人いますが、滝が大きいため、その姿はとても小さく描かれています。滝の周りの岩の形は正確に描かれていて、実物と非常によく似ています。また、図の左端の滝も実際にあり、作者は実際に滝を見て描いたものと考えられます。
 
本文の詩歌
権大僧都斉収の短歌は『新編国歌大観』には載っていません。作者についてもよく分からりません。泉州横塘則は春田横塘のことです。春田横塘、名は走、また有則、横塘と号しました。江戸時代の儒家で、岸和田の人です。
 
轟の滝
轟の滝は海南町の海部川上流王餘魚谷にあります。落差五十八メートル、別名を王餘魚の滝と言います。滝の形は図と同じで、落ち口に大きな岩があり、そこで一旦は二つに分かれ、また一つになって滝壺査に落ちます。現在、滝壷は図のように大きくはありません。渦も巻いてはいません。しかし、滝壺の近くに行くと、水の飛沫が舞い上がっていて迫力満点です。絶壁が迫り、その間を滝が落ちて行く独特な雰囲気のある滝です。図会の説明文ではこの様を「此滝上に水分岩さしいで、千丈の巌両方より立かこひ、屏風をまるくたてたるごとし。滝の高きこと幾千尋といふ事をしらず。」と書いています。
近くには轟神社と竜王寺があり、夏と秋には祭りがあり、十一月の秋祭りには神輿の滝壺入りの神事があります。この神事は全国的にも有名です。また、滝壺のあたりは、修験道の行場にもなっていて、時おり行をおこなう人の姿もうかがえます。
轟の滝は、上流にも二重の滝、横見滝、鳥返し滝等たくさんの滝があり、それらの滝と合わせて轟九十九滝と呼ばれています。川沿いにハイキングコース(片道約四〇分)があり、車で近くまで行けることもあって、家族連れでハイキングが楽しめます。春の新緑、秋の紅葉の頃の絶景は一見の価値があります。轟九十九滝は日本の滝百選に選ばれていて、全国的にも有名な滝です。徳島県下では他に大釜の滝と雨乞の滝が日本の滝百選に選ばれています。
 
参考文献
○『日本の滝』 1995年 講談社
○『近世日本漢文学史論考』 昭和六十二年 汲古書院
○『新編国歌大観』1983年 角川書店
 
索引項目
轟の滝(滝) 滝壺 雲 見物人