鳥居龍蔵(1870-1953)は、明治から昭和にかけて活躍した人類学・考古学・民族学の先覚者です。1870(明治3)年、徳島市東船場に生まれました。小学校を中退した後、坪井正五郎に師事し、人類学を志ざします。1890年には上京し、東京大学人類学教室で標本整理をしながら研究に励み、東京大学助手・講師を経て、1922年(大正11)には助教授に昇任しました。また、その前年の1921年には文学博士の学位を授与されています。1924年に東京大学を辞職して鳥居人類学研究所を設立した後は、きみ子夫人ら家族とともに調査を続けました。
1939(昭和14)年には、招かれて中国のハーバード・燕京研究所客座教授に就任し、晩年の13年間を中国で過ごします。1951年に帰国し、1953年1月、東京都にて82年の生涯を閉じました。
鳥居は、日本列島をはじめ、朝鮮半島、中国東北部、モンゴル、中国西南部、台湾、千島列島、サハリン、シベリア、南アメリカなどの各地を精力的に調査したフィールドワーカーでした。カメラの導入など、先進的な調査方法の開拓者でもありました。日本人の起源についての研究、中国東北部・内モンゴルに展開した遼王朝の考古学的研究など著書や論文も多数あり、多岐にわたるテーマに取り組み、大きな業績を残しています。
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西暦 | 年号 | 年齢 | 事績 | 国内外の動き |
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1870 | 明治 3 | 0 | 現在の徳島市東船場町で生まれる(4月4日) | |
1876 | 明治 9 | 6 | 観善小学校(現在の新町小学校)に入学 | |
1883 | 明治16 | 13 | 公立新町小学校の小学中等科第3級卒業証書を授与される | |
1886 | 明治19 | 16 | 東京人類学会に入会 | |
1888 | 明治21 | 18 | 坪井正五郎が、徳島の鳥居家を訪問 「徳島人類学材料取調仲間」結成 |
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1890 | 明治23 | 19 | 修学のために上京 | 第1回帝国議会が開かれる |
1892 | 明治25 | 22 | 家族も東京に移住 | |
1893 | 明治26 | 23 | 東京大学人類学教室標本整理係となる | |
1894 | 明治27 | 24 | 阿部正功・大野延太郎らとともに秩父地方調査 | 日清戦争 |
1895 | 明治28 | 25 | 遼東半島調査(初めての海外調査) | 下関条約締結、三国干渉 |
1896 | 明治29 | 26 | 第1回台湾調査(カメラを初使用)、帰途沖縄県調査 | |
1898 | 明治31 | 28 | 東京大学助手となる | |
1899 | 明治32 | 29 | 千島列島の調査 | |
1901 | 明治34 | 31 | 市原キミ(きみ子)と結婚、徳島県木頭及び祖谷の調査 | |
1902 | 明治35 | 32 | 中国西南部の調査(~1903年3月) | |
1904 | 明治37 | 34 | 沖縄諸島調査(蝋管蓄音機初使用) | 日露戦争 |
1905 | 明治38 | 35 | 東京大学講師となる | ポーツマス条約締結 |
1906 | 明治39 | 36 | 夫婦で内モンゴルカラチン王府の教員となる | |
1908 | 明治41 | 38 | 夫婦と子どもの3人でモンゴル調査 | |
1910 | 明治43 | 40 | 朝鮮半島の予備調査、第5回台湾調査(~1911年3月) | 韓国併合 |
1911 | 明治44 | 41 | 朝鮮半島調査 | 清国で辛亥革命が起こる |
1912 | 明治45 | 42 | 南サハリン調査、朝鮮半島調査、帰途宮崎県調査 | 中華民国成立 |
1914 | 大正 3 | 44 | 朝鮮半島調査 | 第1次世界大戦勃発 |
1915 | 大正 4 | 45 | 朝鮮半島調査、帰途長崎県対馬調査 | |
1917 | 大正 6 | 47 | 本山彦一と近畿地方調査、朝鮮半島調査 | ロシア革命 |
1918 | 大正 7 | 48 | 雑誌『武蔵野』創刊、長野県調査 | 第1次世界大戦終結、シベリア出兵 |
1919 | 大正 8 | 49 | シベリア東部調査・内モンゴル・中国東北部調査 | |
1920 | 大正 9 | 50 | パリ学士院からパルム・アカデミック公教育勲章贈られる 長野県・福島県・新潟県佐渡島調査 |
国際連盟発足 |
1921 | 大正10 | 51 | 『満蒙の有史以前』で文学博士の学位を授与される 北サハリン・シベリア東部調査 |
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1922 | 大正11 | 52 | 東京大学助教授となる、徳島県調査(徳島市城山貝塚など) | 全国水平社結成 |
1923 | 大正12 | 53 | 国学院大学教授を兼ねる。 | 関東大震災発生 |
1924 | 大正13 | 54 | 東京大学を辞職、鳥居人類学研究所設立 | |
1825 | 大正14 | 55 | 宮崎県調査 | 普通選挙法、治安維持法制定 |
1928 | 昭和 3 | 58 | 上智大学文学部長兼教授を兼ねる シベリア東部及び内モンゴル、中国東北部、山東省調査 |
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1929 | 昭和 4 | 59 | 東方文化学院東京研究所の研究員となる 宮崎県、愛知県調査 |
世界恐慌発生 |
1930 | 昭和 5 | 60 | 内モンゴル調査、南九州調査 | |
1931 | 昭和 6 | 61 | 中国東北部調査、『川内村史』監修のため帰郷 | 満州事変 |
1932 | 昭和 7 | 62 | 中国東北部、朝鮮半島調査 | 五・一五事件 |
1933 | 昭和 8 | 63 | モンゴル及び中国東北部調査、国学院大学教授を辞職 | |
1935 | 昭和10 | 65 | 中国東北部及び華北調査 | |
1937 | 昭和12 | 67 | ブラジル、ペルー、ボリビア調査(~1938年1月) | 日中戦争勃発 |
1939 | 昭和14 | 69 | ハーバード・燕京研究所客座教授に就任 | |
1940 | 昭和15 | 70 | 中国東北部遼代画像石墓、山東省雲崗石仏、山東省調査 | |
1941 | 昭和16 | 71 | ハーバード・燕京研究所閉鎖、日本軍により軟禁状態となる | 太平洋戦争勃発 |
1945 | 昭和20 | 75 | ハーバード・燕京研究所客座教授に復帰 | 第2次世界大戦終結 |
1951 | 昭和26 | 80 | ハーバード・燕京研究所辞職、中国から帰国 | サンフランシスコ講和条約 |
1953 | 昭和28 | 82 | 東京で死去(1月14日) | |
1959 | 昭和34 | きみ子が東京で死去(8月19日)(78歳) |