金胎寺山の山並の北の端に、高くはないが台形をしたいかにも重々しい山容を呈するのが嶽山である(4)。頂上からのながめはよく、富田林の市域はもとより、広く大阪平野を見渡すことができる。こうした地形的条件を生かし、頂上付近にはかつて楠正成が築いた山城があった。
嶽山は金胎寺山とは山容がちがっていることからわかるように、なりたちや山体を構成する岩石も異なっている。嶽山本体の岩石は安山岩ないし石英安山岩質の火山岩で、広く瀬戸内海地域に分布するサヌキトイド(sanukitoide)とよばれる一連の岩石の一種である。
同種の岩石は、富田林市に近い二上山でもみられ、四国の香川県高松市付近に産出するものとともに、とくにサヌカイトとして知られ、黒色の硬い緻密な岩石で、たたくとカーンという金属音がするので、「カンカン石」ともいう。サヌカイトはまた石器をつくるのに適した性質をもち、サヌカイト製の石器は、中部日本すなわち近畿地方、瀬戸内海沿岸地域、東海地方から発見されていて、富田林市域の遺跡からも多数出土している。二上山はサヌカイトを産出する主要な産地の東端にあたり、重要な石器原石供給地の一つであった。
二上山は地質学的にも特徴があり、早くから調査・研究がすすめられてきた。そうした研究の成果をふまえて嶽山のなりたちについて述べることにしたい。
二上山をつくっている二上層群という一連の地層が形成されたのは、日本列島全体が激しい地殻変動にみまわれていた新生代新第三紀中新世(はじまりは約二六〇〇万年前)という時代のことである。このころ大阪周辺から伊勢湾、静岡県にかけての地域には浅い海が広がり、これを第一瀬戸内海とよんでいる(5)。この海はやがて地殻の上昇とともに消滅していくが、そのころ激しい火山活動がおこり、熔岩や火山灰などの噴出物がこの海を埋めていった。二上山本体を構成する岩石に含まれた放射性元素による年代測定の結果、二上山がさかんに火山活動をしていたのは、今から千数百万年前であることがわかっている。
二上山の火山活動が終わってから一〇〇〇万年あまりの期間、山体は浸食を受け、その姿をどんどん変えていった。二上山から運び出された礫は、第三紀の終わりごろから堆積していた大阪層群の地層の中にも包含されていった。その後の六甲変動にともない二上山は隆起し、さらに激しい浸食作用にさらされていった。その結果、周辺の地層より硬い火山岩の部分が浸食からまぬがれ取り残されたものが、今日私たちが見ることのできる二上山であり、遠い過去に活動した火山の残がいなのである。
嶽山はほぼ同じような経過をたどって形成されたと考えられる。つぎに嶽山付近の地層の分布をもとにその形成過程をたどってみよう(付図「富田林市及び周辺地域の地質・遺跡分布図」参照)。
嶽山の周辺には、甘南備累層とよばれる領家花崗岩の礫や砂からなる地層が分布しているが、これは先に述べた二上層群が堆積したのと同じような第一瀬戸内海の浅水域に堆積したものと考えられている(吉川周作・古谷正和「大阪府南部の甘南備累層より花粉化石の産出」『地質学雑誌』八四―一一)。嶽山の火山岩はこの地域の基盤岩である領家花崗岩を貫き地下深所より上昇して、さらに甘南備累層をおおった。嶽山のサヌキトイドは露頭でみるとすっかり風化して白色を呈している。また同じような火山岩が汐ノ宮の千代田橋上流の石川の河原にも露出している。この火山活動は二上山のサヌカイトなどの噴出と同じ千数百万年前におこったものであろう。火山活動が終わったあと、山体は長い時間浸食を受け、付近は再び水底となり、大阪層群という地層におおわれていった。その後断層をともなう地殻変動(六甲変動)のため、この付近は地表面上に持ち上げられ、再び急速に浸食が進行した。なお嶽山の頂上付近には、浸食をまぬがれた大阪層群の地層が今も残っているが、このことは山体がかつては水底にあったことを示している(桑本順子「富田林東南部の地質教材化のための一こころみ」『大阪の地学教育』一)。火成岩はまわりの大阪層群よりずっと硬いため、二上山の場合と同様に浸食から取り残された結果、今日見るような嶽山の姿となった。