獄山から西方をながめると、石川をはさんで東岸とは対照的に、なだらかな丘陵が南北に長く連なっているのがわかる。標高が一〇〇メートル前後、最も高いところで一五〇メートルほどの丘陵地である。西山とよぶ人もあるが、一般に羽曳野丘陵という(6)。今日この丘陵地帯は、金剛団地などの大規模な住宅団地やPL教団の用地として開発が進んでいるが、一九五〇年代まではまだ松林の広がる荒地であった。
羽曳野丘陵は富田林市の南端、河内長野市との境界付近から羽曳野市にかけて広がり、ほぼ南北に長く、かつ中央部で東西にふくらんださつまいものような形をしている。現在の羽曳野丘陵は開発のために地形が大きく変わってしまい、もとの自然の状態を知ることは大変むずかしくなってしまった。しかし、古い地形図や、開発がはじまる以前に撮影した空中写真などを手がかりに検討してみると、さまざまな興味深い事実がわかってくる。
まず気がつくのは、羽曳野丘陵をほぼ南北にとおる分水界が、極端に東側に寄っていることである。つまり丘陵を東西に切った場合の断面をみると、分水界をはさんで西側に傾斜が緩く、かつ長い斜面があり、反対に石川に面した東側は急傾斜で短い斜面を持つという非対称形をなしている(付図参照)。
このことは丘陵をきざむ谷の分布や大きさの相違となってあらわれている。丘陵の東側斜面にきざまれた谷は、いずれもごく短小であるが、西側の斜面には、五軒家付近に口を開き廿山(つづやま)の集落の近くまでのびた谷(今は金剛団地の造成のため大部分が埋められてしまっている)のように長大な谷が何本もみられる(7)。どうしてこのようなことになったのであろうか。その理由を明らかにするためには、羽曳野丘陵のなりたちを知らねばならない。