鮮新世の中期(五〇〇万年~四〇〇万年前)に、近畿地方の中央部で、大阪層群を堆積させた堆積盆地、すなわち第二瀬戸内海(5)の形成がはじまっていた。初期のころは東西性の方向をもった構造が目立ったが、更新世中期からは南北性の構造が顕著になってくる。このような南北方向にのびる断層や褶曲をともなう地殻の動きを六甲変動とよんでいる。約四〇万年前から約二〇万年前のころは、六甲変動が最も激しいときであった。近畿地方の六甲山地・淡路島・生駒山地・金剛山地・笠置山地・鈴鹿山脈などの南北性の高まりと、それらにはさまれた大阪盆地・奈良盆地・伊賀盆地などの沈降部分は、こうしたなかで形成された。
大阪盆地では六甲山・生駒山・金剛山などの山々が、この時期に断層をともなって高く隆起し、現在みられるような山地となったということはすでに金胎寺山の説明をした際に述べたとおりである。一方、盆地の中心部、つまり大阪湾は沈降を続け、その結果、盆地周辺部の丘陵を構成する大阪層群も、海岸部では、沖積層の下にもぐりこみ、最下部は地下一〇〇〇メートルにも達していると推定されている。
羽曳野丘陵などの丘陵の地下には、こうした六甲変動による断層をともなう基盤の隆起部分がかくされており、その活動につれて丘陵が形成され、大阪層群などの地層が褶曲を受けたり、段丘が形成されていったのである(12)。富田林背斜の成因となった地盤の動きも、こうした六甲変動の一環であり、大阪盆地全体のなりたちとの関連でとらえられる。
なお、石川をはさんだ東岸にも大阪層群が分布するが、佐備川と東条川の間の丘陵部も羽曳野丘陵と同様の背斜構造をなしている。南大伴の楠徳寺の南に露出している大阪層群の崖では、その様子をはっきりとみることができ、地層の変形にともなう小断層も認められる。この背斜構造は、金胎寺山・嶽山の東側をほぼ南北に通る断層によるものと考えられる。そしてこの二つの背斜にはさまれて南北にのびる向斜(背斜とは反対に地層が下に凸状に曲がっていること)部分が石川谷である。