石川と天野川の河川争奪

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石川谷は前にふれたように、富田林背斜の成因となった六甲変動にともなう断層活動により沈降した部分であるが、ここでもうすこし広く、石川谷の周辺の地域にも目を向けてみよう。羽曳野丘陵をはさんで、西側には狭山池に流れ込む天野川の谷がある。その天野川は、地図の上で一見してわかるように、その流域面積や長さにふさわしくないような大きい谷(とくに羽曳野丘陵南端部以北で)を持っている点で、いかにも不自然な感じがする。

 また天野川および石川沿岸の段丘地形の研究によると、富田林付近の現在の石川に沿ってみられる段丘面より古い時期に形成された段丘面が、石川上流の河内長野市日東町付近の谷にみられ、それと同時期に形成された考えられる段丘面が、羽曳野丘陵の南端付近から天野川の谷にかけて分布している(岡義記「大阪平野東南部の地形と地殻運動」『地理学評論』三四―一〇)。

 このことはつぎのように考えることができる。すなわち石川は、かつて河内長野市の北部から北西方向に流れていたのである。つまり現在の天野川の下流部分がそれにあたる。一方当時の石川谷では、現在よりもはるかに小さい流域しかもたない小河川がみられるにすぎなかったということである。それがどのような過程を経て現在の石川の流路が形成されたのかという問題を考えてみたい。

 羽曳野丘陵を隆起させ、富田林背斜の成因となった六甲変動にもとづく地殻の変動は、富田林市須賀付近から河内長野市の千代田にかけての一帯を隆起させた。一方、現在の石川の谷の部分は沈降して、天野川の谷より低くなってしまった。そのため、本流は天野川の谷を流れることができなくなり、一方浸食力を増した石川谷の小河川は天野川の上流部を奪い取ってしまったのである。このような現象を河川争奪という。すなわち天野川との河川争奪により天野川から上流部を奪い取って、現在の石川の流路ができあがったものと考えられる。

 こうした河川争奪の原因となった地盤の動きは、現在も続いているとみられ、須賀付近を通る府道沿いの深くけわしく刻まれた谷がそれをあらわしている。