人間活動の活発化と植生の変化

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人間活動が植生に大きな影響を与えるということについては、すでに前節でもふれたが、さらにここでは人間活動と植生の変化について述べることにする。

 大阪平野において人間が活動を始めたころ、すなわち縄文時代前期当時の植生(18)は、ヤブコウジ・スダジイ・シラカシ・ウラジロガシなどの照葉樹が平野や丘陵をおおっていたが、河岸や丘陵部の谷に沿ったところでは、エノキやムクノキがみられた。羽曳野市の古市で行なわれた花粉分析による調査では、このような森林がアカマツを主体とする林に変化する経過が明らかにされているので、それにもとづいて当時の植生の変遷過程をふりかえってみよう(安田喜憲前掲論文)。

 今から三〇〇〇年~一六〇〇年前のころシイ・カシなどからなる照葉樹林が広がるなかで、丘陵をきざんだ谷沿いの低地などには、エノキやムクノキが生育していた。この時期というのはほぼ縄文晩期から弥生時代に相当するが、人間活動の活発化にともない、シイ・カシ林が破壊されたところにエノキ・ムクノキが進出したのであろう。しかし、四世紀ごろになると、エノキ・ムクノキ林は急激に減少していった。弥生時代から古墳時代にはいり水田稲作農業が進展して人口が増加したため、低地部の水田適地が減少し、エノキ・ムクノキが生育する丘陵部の谷沿いの低地や、扇状地面上の沢沿いの低湿地までが、水田として開発された結果、エノキ・ムクノキ林が消滅したと考えられる。

 さらに、古墳時代に入ると、花粉分析のなかでカシ亜属をはじめとする木本花粉が著しく減少し、かわってマツが優先してくる。こうした古墳時代における植生の変化には、一部の地域についてではあるが、須恵器を焼くための燃料として、丘陵部の照葉樹林が伐採されたことが大きな役割をはたしたとする研究もある(西田正規「和泉陶邑と木炭分析」大阪府教育委員会編『陶邑Ⅰ』)。須恵器を焼いた窯跡に残された炭片の材質を分析した結果によると、五世紀までは、広葉樹が燃料の大部分を占めるが六世紀以降しだいにアカマツが増加し、七世紀の後半には、大半がアカマツになったというのである。富田林市域でも羽曳野丘陵西部の五軒家や中佐備に須恵器を焼いた窯跡の存在が知られている。

 以上に述べたような経過をたどり、シイ・カシを中心とする原植生が人間活動によって変化し、二次林としてのアカマツ林に変わっていったのである。富田林市付近で、今日私たちが目にすることができる植生も、同様のなりたちを持つものと考えられる。なお金胎寺山などにみられるコナラやクヌギの雑木林は、これらが、かつて炭用材として人間の管理下に形成されたものである。

 こうしたなかにあって、信仰上の理由などから比較的長期間にわたって樹木が伐採されなかったために原植生のおもかげを残しているのが社寺の森である。また、羽曳野市の応神陵をはじめとする諸陵墓では、マツクイムシによりアカマツが枯れ、その結果照葉樹林が復活した例もみられる。