人間活動と地形

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弥生時代にはいると人びとは水田稲作農業を開始したが、このことは人間活動と地形とのかかわりが非常に密接になってきたことを意味している。水田稲作農業は、灌漑用水の確保と水田造成の点から、地形条件が考慮されなければならないが、当時の技術水準では、現在のように石川谷全体を耕地化することは不可能であった。

 石川の流路に沿った最も低い部分である氾濫原は、低平で水の便もよいが、たえず洪水の危険にさらされていた。一方、段丘上は、洪水に対しては安全であるが、水利の点で条件は良くない。しかしよく観察すると、段丘面には小規模ではあるが谷が刻まれているのを認めることができる。富田林の旧毛人谷(えびたに)地区では地名が示すように今日でも家並の中に谷筋をたどることができるし(21)、市民会館がある粟ケ池は、こうした段丘に刻まれた谷をせきとめてつくられた古い溜池である。このような段丘上の小さな谷に沿って人びとは水田を拓いたのであろう。また当時の人びとが営んだ集落は、洪水に対して安全で、耕地に近いという条件をもつ段丘上の小谷沿いに営まれたのであろう。中野遺跡、喜志遺跡はそのような弥生時代の集落址と考えられている(中村浩編著『中野遺跡発掘調査報告書』富田林市教育委員会 一九七九年)。

21 段丘を開析した谷(左手の家並がやや乱れている部分に毛人谷の地名が残っている)