「富田林 南河内 都会の地也
いにしへは富田芝とて、広き野にてありしが、
天正の頃、公命によりて市店建続きて商人多し………」
一八〇一年(享和元年)『河内名所図会』の中で秋里籬島(あきさとりとう)は当時の富田林の町屋の発展ぶりをこのように表現した。しかしその富田林が、新堂、喜志、大伴、川西、彼方、錦郡および東条などの諸村とともに富田林市を形作るようになったのは今世紀中頃のことで、市の人口は現在一〇万人にのぼっている。この富田林の地域が、今から一〇〇〇年前の状況はどうであったか、あるいはさらに五〇〇〇年前の景観はどのようなものであったかとさかのぼっていくと、『河内名所図会』に描き出された江戸時代の街の姿とは、また一段と異なった社会の映像が浮かび上がってくる。本編では、文献資料でたどることのできる時代以前の古い地域社会の有様を、遺跡や遺物などの考古学的資料をもとにして組み立てることにしたいと考える。