地域社会との関連

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たとえば市内緑ケ丘町の府営住宅地内に遺存している新堂廃寺は、飛鳥時代に創建された府下有数の寺院址である。当時摂河泉の地には、聖徳太子の建立という上町台地上の四天王寺など、ごくわずかの寺院しか造営されていなかったとみられるので、河内平野から入り込んだ石川谷の一角に、新堂廃寺がどうして新しく造られたかという問題意識からとらえなおすべきである。従来の考え方では、各地に寺院が造建されていく現象を、単純に中央から地方への文化波及の面からしか理解していなかった。しかし飛鳥時代の初期寺院の成立とは、大きな瓦葺の木造建築物の出現という現象面だけを指すのではない。その背景には外来の仏教思想を基盤として共有した地域社会内部の成熟した条件があったからである。

 これは畿内の先進性の波及だけで可能であったといえるであろうか。むしろ当時の石川谷の地域社会が有していた特質が、河内平野の各地に先んじて寺院の成立を促す社会的基盤をなしたとみるべきではないか。すなわち新堂廃寺の出現を解き明かす鍵は、この地域での定住集落の展開過程、およびその上に立つ豪族層の性格と新しい文化への対応とにあるといえよう。