一九五五年に初めて『富田林市誌』が編まれた段階では、市内で明らかにしえた遺跡の数はせいぜい一一カ所にすぎなかった。ところが次節の「調査研究史」で記述するように、六〇年代以降の調査によって遺跡の数は一二〇カ所を超えるまでになった。市内の埋蔵文化財遺跡の分布調査をしてみると、石川などの水系に沿う河岸段丘上には、ほとんど全域にわたってなんらかの遺跡の存在が認められる。ところがこうした遺跡の発掘といい、分布調査といい、その実態は六〇年代以降の地域開発によって、埋蔵文化財関係遺跡が破壊の危機にさらされた結果、余儀なく実施したものであった。そして主要な遺跡のいくつかは発掘調査を行なうことができたが、中には調査によって内容を明らかにする機会もない間に、姿を消してしまったものもある。この苦い体験から反省するならば、市内に現存する諸遺跡は、もうこれ以上に現状を変えることなく保存し、後世にまで維持していく責任がある。まさに遺跡こそが、地域社会の住民にとってその地に刻み付けられた唯一の記録であり、この文化財を読みとっていくことが、文献に残されていない地域社会の歴史を編成する手段となるからである。