ガウランドの富田林滞在

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さて、このエドワード・エス・モースの登場が関東における先史考古学の嚆矢(こうし)であったとすると、関西では古墳考古学の隠れた研究者としてウイリアム・ガウランド William Gowland の存在をあげねばならない。彼は明治初年に造幣寮の御雇外国人として来日した英国人であった。はなはだ興味のあることであるが、一八七六年七月二三日に、この富田林市内にも彼の足跡がしるされているのである。本市の市史編集室で市史の資料を整理中にたまたま見出した史料からまず紹介することにしよう。

 市内の杉本家文書の中に、杉本藤兵衛敬信が書きつづった『日新録』と称する全二七冊の日誌があって、明治初年の富田林地域を中心とした社会情勢を知る上で貴重な史料となっている。その中で一八七六年七月一日より書き起こされた『日新録』をみると、七月二三日の項につぎのような記事が見える(26)。

26 『日新録』のガウランド来訪記事

廿三日曇(前略)……午後九時比藤野氏と夕飯喫シ居候処へ袮平より外国人の泊り届ニ来ル 直ニ見分ニ行候処、旅行免状出シ見ル 造幣寮御雇人英国ガウランド ウヰルリヤム、附添人北下熊蔵殿也

廿四日 晴トナル 英国人見ニ行候所、最早出立後也。

 明治維新後一〇年を経たとはいえ、当時の富田林村内で西洋人の姿を見かけること自体がきわめて珍しいことであったに違いない。そしてこのガウランド ウヰルリヤムという人物が、前述の古墳考古学の研究者ウイリアム・ガウランドに他ならないことは、彼が所持していた旅行免状に造幣寮御雇人とあることからも確実である。とすると、彼が大阪近郊とはいえ、この片田舎を旅行していた目的としては、どのような事情が考えられるであろうか。