ガウランドは一八四二年にイングランド東北部にあるサンダーランドに生まれた。三一歳のとき、大阪造幣寮の御雇化学兼冶金技師として招聘され、一八七二年一〇月中旬に日本へ到着した。彼は造幣寮内の西洋風官舎に住み、貨幣鋳造事業の指導者として、やがて冶金方のほかに試験分析方と熔解所長となり、首長御雇外国人の地位に達して、在日一六年ののち、一八八八年一〇月に任期満ちて退職帰国した。その間、本務としての技師の立場からは反射炉による精銅法の導入など、明治初期における貨幣鋳造素材の研究に重要な貢献をした(27)。一方、日本の古墳、とくに横穴式石室の構造をもつ後期の古墳を「日本のドルメン」と称して、遺構と遺物の詳細な調査研究を行なった。彼は東京のエドワード・エス・モースの先史学に対する業績と比べて、古墳の研究という面では開拓者にふさわしい存在であった。
彼は英国に帰って、一八九七年には『日本のドルメンと古墳』“Dolmens and Burial Mounds in Japan”を、一八九九年には『日本のドルメンとその築造者』“Dolmens of Japan and Their Builders”を著した。この中で前方後円墳をはじめとする日本の各種の古墳を取り上げ、とりわけ横穴式石室に関しては、東は群馬県から西は宮崎県に至る日本の主要分布地域をほぼ網羅して四〇六例を踏査し、さらにそのうち一四〇例を精査した。論文に掲出された古墳の実測図などは、当時として稀に見る精密さをもって作製されたものである。彼が寸法を記録した横穴式石室をもつ古墳の中には、今日では陵墓として治定されているため、内部を調査できない奈良県橿原市見瀬の丸山古墳などがあって、彼の調査にはいまなお貴重な価値を有するものも含まれている。
ガウランドが来日後、はたして何年頃からこれらの古墳の調査に着手したかは明らかにしがたいが、すでに一八七八年に河内の芝村にあった芝山古墳(東大阪市東石切町)の発掘をおこなったらしい点から考えると、彼はすでに来日直後から、勤務の余暇を意欲的に大阪周辺の古墳の探索のために費やし始めていたといえるであろう。たとえば奈良市西郊のコナベ古墳を略測し、墳丘に樹立された円筒埴輪について詳細な観察を試みているのも、顕著な業績の一つである(28)。
彼の足跡は河内南部だけでも、今日の羽曳野市河原城の六ツ塚古墳、藤井寺市の長持山古墳、柏原市の道明寺山千塚などいたるところに認めることができるから、彼が大阪南部において初期の踏査を始めた段階で、たまたまこの富田林にも足を踏み入れたのであろう。
しかしガウランドは、この富田林の地域では著名な古墳を見出すことができなかったらしい。それは前述した彼の二冊の著書の中に、富田林あるいはその近傍の遺跡に関して、全く触れた記事がないからである。彼が富田林で一夜の宿をとった前後の行動については、もし彼自身が日記や調査メモなどを残していれば、判明するところがあったと思われるが、現在の段階では不明とするほかはない。いずれにしても、彼が来日して古墳調査を始めた最初の段階で、選ばれたのが河南の地であったということは、偶然のことではないであろう。