さて、これから一〇年余を経た一八八七年一二月になって、我われはようやくもう一つの新たな記事を学術雑誌の上に見出すことができる。これは「河内国千塚ヨリ出デタル陶枕」と題するごく短い報告であって、当時東京で発行されていた『東京人類学会雑誌』の第二二号に掲載された。筆者は「淡厓」とだけ署名しているにすぎないが、これは淡厓迂夫というペンネームを用いて、この頃盛んに精力的な学会活動を続けていた神田孝平(かんだたかひら)のことである。彼は旧幕臣として漢学・蘭学の素養をもち、きわめて博識をもって知られ、維新直後には兵庫県令(知事)となり、のち東京人類学会が設立されるにおよんで初代の会長を勤めた人物である。
この文中において「松浦北海翁所蔵ノ陶枕ハ河内国錦部郡千塚ノ古墳ヨリ掘出セル者ナルヨシ」として、「質ハ行基焼ナリ」と須恵質であることを紹介し、別に「松浦氏所蔵陶枕之図」と注記して線描きのスケッチを掲げている(29)。すなわち後世の坊主枕に似て上部の真中がわずかにくぼんだ珍しい枕形須恵器が、錦部郡千塚から出土したという所伝に基づいて、遺物の資料紹介を試みたものである。
埴製のものも含めて枕形土製品の出土数は、その後においても京都府産土山古墳、奈良県猫塚古墳など数例にすぎないから稀少価値のある資料といえるが、この「錦部郡千塚」というのは、現在ではどの地域にあった古墳を指すのかよくわからない。錦部郡は一八九六年の郡統合まで河内国の南端の一帯にわたる行政区画であって、廿山村、錦郡村、彼方村、市新野(いちしんの)村、長野村、高向(たこう)村、天野村、三日市村、加賀田村、天見村、川上村の一一カ村からなり、現在の富田林市南半部から河内長野市に跨っていたことが知られる。この地域内には古墳の分布も多いが、須恵質の枕といい、千塚という名称などからして後期の群集墳と推定することができる。おそらく横穴式石室群が最も多い嶽山西斜面にあたる旧彼方村の丘陵地帯を指すのではないかと想像するが、もとより憶測にすぎない。