高橋氏のこの論考は、お亀石古墳の特異な石室構造の紹介に始まり、羽曳野市飛鳥の観音塚、同オーコー古墳、太子町春日の塚ノ前古墳、柏原市高井田の道明寺山手塚中の一古墳の諸例をあげて共通点を指摘した。すなわちこれらは、正面に大きな方形の孔が開口した横口式石棺を、石室の奥に据えつけたという構造で一致し、いずれも切石造りからなることを明らかにしたのであった。この頃、喜田貞吉氏も別に『歴史地理』誌上で、羽曳野市羽曳山古墳、同市西浦の徳楽山古墳の石棺を通じて、この種構造の古墳の存在を初めて学界に報告したのであったが、高橋氏はさらに新たな上記の諸例を列挙するとともに、お亀石古墳には、石棺の開口部を閉塞するための石栓も遺存する事実から「多くの場合は彼の孔を口としてそこから遺骸を入れた」ものと考えて、横口式石棺の本来の機能と埋葬後に閉鎖された状況を推定した(30)。
お亀石古墳については、後年の調査で飛鳥時代の瓦積護壁を棺側から発見したので、年代をさらに限定して七世紀初頭に位置づけることが可能となった。これについては後章の同墳解説の項に譲って、学史の上からは富田林市内における考古学遺跡として、最初に学界に知られたのがこの古墳であったことに注目したいと思う。なお一九二四年に刊行された高橋氏の名著『古墳と上代文化』の中でもこのお亀石古墳は取り上げられ、各種の型式の石棺を解説した際、とくに「横口式石棺」の項目を設け、その一型式の代表として図示している。