一方、梅原氏は一九一二年頃から河内各地の古墳と寺院址を中心として分布調査をこころみ、『考古学雑誌』や『歴史地理』に簡単な調査報告を連載した。これはまさにこの地域の追跡調査の黎明(れいめい)を告げるものであった。とくに『考古学雑誌』に連載された「河内踏査報告」は、もともと梅原氏から高橋氏に私信として送られた報告を転載したもので、今日からみると簡に過ぎるきらいはあるものの、ようやくこの頃から学界に知られ始めた遺跡を網羅したものとして興味深い。踏査は現在の柏原市国分(こくぶ)周辺の遺跡から始まり、ついで藤井寺市、羽曳野市方面に及び、とくに『考古学雑誌』第五巻第三号では「近時調査せる河内の古墳」として、第四八番目に「廿山の廃塚」が紹介されている。
廿山の廃塚というのはここでいう廿山古墳のことで、まず「河<ママ>西村大字廿山の東南方約二町の丘陵上にあり」と位置を述べ、「円塚にして、高さ約二間、径約五間の封土存せるも中央部は掘り取りありて全く破壊され、今残るは骸のみ」と現状を記している。そして出土遺物については「土人の談に依るに今より二十数年前之(これ)を発掘せしに塚穴(石槨)ありて、内部より刀剣、鏡、鉄鏃等を発見せり」と簡単に触れているにすぎない。実はこの古墳から出土したのは鉄鏃ではなく古墳前期の銅鏃で、現在九本の資料が東京国立博物館に収蔵されている。いずれにしてもこの廿山古墳は市内でも最も古い時期に属する古墳の一つであると考えられるが、当時の研究水準ではまだ地域古墳の編年に位置づけて考察するに至らなかったのである。ママ>