現在、藤井寺市に属する国府(こう)遺跡は、一九一〇年代から一九三〇年代にかけて大阪府下で最も注目された石器時代遺跡であって、縄文時代から弥生時代にかけての、大規模な集落遺跡であることを明らかにしたそもそもの端緒は、一九一七年に行なわれた京都大学浜田耕作氏らの本格的な発掘調査であった(31)。
しかし浜田氏が当初国府遺跡の発掘を計画したのは、たんなる集落遺跡の調査ではなくて、もっと野心的な旧石器時代遺跡の発見を賭したものであったのは興味深い。その動機は、国府遺跡の地層下深くから大型粗製の旧石器とおぼしい石器が出土することを伝聞したからであった。
すなわち一九一六年一〇月、喜田貞吉氏は富田林において「南河内郡の古代遺跡に就いて」と題する講演を行ない、その中で、国府遺跡には表面の土壌中に混じている遺物のほかに、さらに深い所からも別の系統の石器が出土するという衝撃的な談話を発表した。氏の説明によると「此の地は表面に一、二尺の普通の土壌がありまして、其の中から普通の石鏃や石槍などが出る。是は頗(すこぶ)る精好<ママ>なものですが、其の土壌の下が、五、六尺の砂利層で、其の砂利層の下に粘土層がある。其の粘土層の中から上層の石器とは全く系統の違った、大形の無細工な石器が沢山に発見せられるとの事であります」という内容であった。ママ>
ところが浜田氏ら京大の発掘調査の結果は、所期の目的に反して旧石器に類する石器を包含した層は発見できず、縄文・弥生の各土器を含む包含層と、土師器などの存在を確認したにとどまった。ただ、この集落址に接して石器時代人骨の埋葬址が見出され、その後、継続して行なわれた発掘により、日本古代人骨に関する人類学的な研究の上で、多数の貴重な資料を提供することになった。なお国府遺跡から、旧石器ともいうべき先土器時代の石器がついに発掘されるに至ったのは、この調査からちょうど四〇年後の一九五七年のことであった。