喜志遺跡の初紹介

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さて喜志遺跡の方は、国府遺跡の調査に関連して踏査されたもので、富田林市内においていわゆる石器時代遺跡、現今の呼称によれば弥生遺跡の状況が報告された最初の事例である(32)。この遺跡は当時道明寺天満宮の宮司として、かたわら郷土の遺物を採集していた南坊城良興氏が、最初に遺物散布地として発見したものであったという。報告書によると、地上から踏査した遺物の分布は、喜志小学校の北方にあたって南北約六〇〇メートル、東西約二五〇メートルの範囲に及び、石鏃・石錐・石槍のほか、磨製の石包丁も含まれていたが、弥生式土器は砕片で見るべきものがなかったという。

32 1950年ごろの喜志遺跡

 たんに遺物の発見という上からみると、これより先、山崎直方氏は一八八九年に『人類学雑誌』上で「河内国に石器時代の遺跡を発見す」と題して、初めて国府遺跡の発見を報じ、ついで一八九二年に、同誌上で再び「河内に於ける石器の新発見地」として、太子町山田での石器発見記事とあわせて、当時新堂村に属していた市内中野町から石鏃を発見したことを追加報告している。

 日本考古学、とくに先史考古学にとって二〇世紀初頭が一つの転換期であったことは、たとえばこの前後を通じて東京人類学会で編集された『日本石器時代地名表』第五篇の巻頭に掲げられた遺跡・遺物発見地の、報告例数が増加する推移によっても明らかにできる。一八九七年には全国で総数一八四一カ所であったのに対し、翌一八九八年には二二八一カ所とわずかにふえ、一九〇一年には三一三三カ所に達している。ところが一九一七年には五一八八カ所を数えたのが、一〇年後の一九二八年には一万一四二カ所とまさに二倍の増加率を示しているのである。河内国に限ってみれば、一九世紀末までは六カ所にすぎなかったものが、一九一七年には九カ所とふえ、一九二八年には一三カ所に達している。もちろん現在の旧河内国地域内での遺跡・遺物の発見個所は五〇〇カ所をはるかにこえる。たんに遺跡・遺物発見数の増加をもって推測するのは問題があるが、一九二〇年代はまさにこうした研究対象の転換による意欲的な遺跡発見が、大きく刺激された時期であったと考えることができる。