さて、ここで眼を転じてこの石川流域の中で、古代寺院址が本格的な調査の対象となっていった経過を述べることにしよう。わが国における寺院の成立については、諸書に記載された六世紀代の仏教伝来記事と結びつけて、戊午(五三八年)説と壬申(五五二年)説とがあったが、具体的な飛鳥時代寺院についての考察は、主として法隆寺問題を通じて発展した。一九〇〇年代初頭は、法隆寺伽藍の再建・非再建をめぐって文献上からの論争が行なわれ、建築史、美術史の分野で著しい発達をみた(33)。
一方、一九一〇年代に入って全国各地の寺院址から採集される古瓦の数も増加し、その瓦当の文様に対して美術史上の見地から分類を試み、変遷をたどることも行なわれた。高橋健自氏の「飛鳥時代古瓦の研究」(一九二一年)はその初めての試みであったが、寺院そのものの成立年代を出土した古瓦によって裏づけようとする着想は、一九三〇年にいたってようやくその緒についたといってよい。
このころから石田茂作氏は『日本書紀』の推古紀に記載の四十六寺、いわゆる聖徳太子四十六院の研究に着手し、飛鳥時代に属する寺院址のことごとくに現地調査を試みて、その寺院の成立年代を古瓦の編年を通じて初めて考察した。この研究は一九三六年に『飛鳥時代寺院址の研究』として本文・図版の二大冊にまとめられ、全国に分布する飛鳥時代と考えられる五八カ所の寺址を取り上げて、遺跡・遺物・沿革の面から考察した。河内国の飛鳥時代寺院のうち、西琳寺・野中寺・土師寺・衣縫(いぬい)廃寺・大県(おおがた)廃寺と並んで当時新堂村に属していた「新堂廃寺」が初めて取り上げられたのであった。
すなわち新堂村の西方の丘陵縁に「ヲガンジ池」と称する用水池があり、それに沿う東側の台地に「堂ノ前」という小字名を残していることもこの時に指摘された。もっともこの地域に古瓦片が散布することは、はやくから井上正義氏らによって知られていて、石田氏が最初にこの寺院址のことについて知識を得たのは、堺市の瓦研究家前田長三郎氏からであるという。しかし寺院址と推定されるところには、土壇も礎石も認められなかったので「所謂オガンジ池の東南に当って、総面積三反近くもある方形に整った一枚の畑の存在は、さうした推定に多少の手懸りとならぬでも無い」と控え目に判断して「古瓦の散布も此の辺に殊に顕著で、且つ其の辺の小字を堂ノ前と呼んでゐる事は、この地こそ、当伽藍の主要建築の存在を暗示するものではあるまいか」と結論した。