その後二十余年間、この新堂廃寺の伽藍はまさに幻の古代寺院として発掘の鍬を入れられることなく、実態を秘め続けてきた。すでに一九三六年には藤沢一夫氏が大阪市四天王寺出土古瓦の調査を契機として、飛鳥時代屋瓦の認識についての誤りを正す「飛鳥期瓦の再吟味」(『考古学』七―八)の論文を発表していた(34)。ついで一九四一年には「摂河泉出土古瓦の研究」(『考古学評論』東京考古学会)で、この新堂廃寺を「河内石川廃寺」と呼び、日本の屋瓦の編年の中では最も古い第一期類に位置づけて「百済・古新羅などの南朝鮮系の素弁蓮華文によって、軒丸瓦々当面の豊かに飾られる様式」と説明し「本邦古瓦に於ける一主流の根元を成した重要のもの」と定義したのであった。
一九五九年の早春になって、この寺院址の所在地域一帯が府営住宅として開発されることが知られたので、急拠予備調査を行なった。その結果、台地の全面にわたって地下に古瓦を包含する層が堆積している事実を確かめ、予想のように寺院址の存在を明らかにした(35)。この調査は文字通り緊急調査として、わずか一六万円の限られた調査で範囲を確認する程度しか発掘調査することができず、次年度の本格調査のために宅地造成範囲から除外する地域を決定するにとどまった。しかし出土した古瓦には多くの素弁蓮華文軒丸瓦が含まれていて、まさしく飛鳥時代屋瓦の白眉と称すべき瓦当文からなり、新堂廃寺の創建が飛鳥時代にさかのぼることを裏づけた。
こえて一九六〇年九月から約二カ月にわたって、大阪府教育委員会は本格調査を実施し、予備調査で検出した瓦積基壇を手がかりとして全面発掘した結果、かつて建物が存在していた痕跡を確かめ、主要伽藍の配置からみて西方建物と称することにした。さらにこの西方建物の東方には中央建物(金堂)、その南側に南方建物(塔)、北側に北方建物があったことを推定するにいたった。