さてこれより先、一九五一年四月になって、市内錦織から思いがけなく縄文遺跡が発見された。これまで市内には喜志遺跡を除くと他に弥生時代の遺跡すらないと考えられてきたから、これは特筆すべきことであった。当時錦郡小学校の生徒であった上神忠彦君らが、たまたまサヌカイト片とともに逆刺をもつ石鏃を採集して、担任の教諭滝彪氏に報じたのがこのきっかけとなった。
その後、同校生徒諸君が熱心に続けた採集活動で集めた資料の中に、爪形文をもつ土器の細片があり、これによって前期の縄文遺跡であることを確認した。場所は近鉄の滝谷不動駅のプラットフォームから程近い東北方の畑地で、東方はすぐに石川に臨む比高差一〇メートルほどの台地上である。遺跡は本格的な発掘調査を経ていないため、範囲もまだ明確ではないが、暗渠設置工事などで縄文土器片や石器がかなり出土している。
目下のところ、この錦織遺跡が市内の石川流域側における確実な最古の集落遺跡である。さらに近年の分布調査の結果、伏見堂・細井・佐備地区などから縄文時代のものらしい凹・平基式の石鏃が出土していて、将来市内の縄文遺跡が増加することは間違いない。