さて、一九六〇年代頃から、富田林市内の埋蔵文化財遺跡は、新しい受難の段階を迎えることになった。日本経済の高度の成長を反映して民間の住宅供給企業が都市周辺に進出し、大規模な宅地造成を目的とした地域開発が始まったからである。先述した一九五九年の府営住宅造成工事は、まさに富田林市における埋蔵文化財遺跡の危機の始まりであった。
とくにこの時期の開発は戦前のように既存の集落の周囲に住宅が少しずつ新築されていくというのではなくて、今まで全く家のなかった数万平方メートルもの丘陵や水田地帯が、一挙に新しい団地として造成される事態が生じてきた。とくに石川谷に臨む丘陵縁が主として開発されたため、平地を見下ろす見晴らしのよい丘陵突端に築かれていた古墳が、墳丘の基底部から削平されて消滅する結果になった。学術研究のために遺跡を選んで発掘調査をするのではなくて、これらの造成工事にともなって破壊される直前に、緊急の調査を余儀なくされる事態を招いたのである。