真名井古墳の調査

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新堂廃寺に続いて、一九六一年、宮町三丁目にある美具久留御魂神社の南方に、平地に向かって突出していた宮前山一帯が開発されることになったのは、まさにこのケースであった(36)。東方の粟ケ池畔からみると、三角形に形よく隆起して目立っていたこの標高九三・五メートルの丘陵突端には通称十三本松山、のちに真名井古墳と称することになった古墳が存在した(考古一二)。この古墳には墳丘斜面の各所にわたって埴輪円筒の破片や葺石も散布し、さらに西方には宮前山古墳という、凝灰岩切石の横口式石棺を蔵する古墳もあった。

36 1950年ごろ、西南方からみた真名井古墳の全景 (中央の白くみえる丘陵部分)

 これらの古墳については、未調査のまま開発の手に委ねて破壊してしまうこともできないので、一九六一年八月一九日から約一カ月にわたって大阪大学で真名井古墳の発掘調査をした。その結果、まず墳丘については従来円墳ではないかと考えられてきたのが、意外にも低平な前方部を西方にもつ全長六〇メートルの前方後円墳であることが判明した。また内部構造は前期の粘土槨で、基底部に排水施設をめぐらし、くびれ部に向かって排水溝を設けている興味ある事実も確かめられた。