河内南部の丘陵地帯に回廊として位置する石川谷において、四世紀代にさかのぼる古墳前期の豪族たちの墳墓が、どのように分布しているかという問題は、当時の地域社会の構造を解明する上で重要な意義をもっている。古くは廿山古墳が不充分な内容ながら前期古墳の稀少な一例として取り扱われ、一九三〇年になると、当時、三日市村と称した河内長野市日東町の大師山古墳における豊富な石製品などの発見が加わり、いままた石川の中流域で真名井古墳の新例を得て、具体的な資料は次第に充実してきた。この後、さらに鍋塚古墳や羽曳野市壺井の御旅山古墳が調査されるにおよんで、石川谷がもついくつかの河岸段丘上に、小規模な豪族集団の支配がまず形成された経緯が明らかになった。ついで古墳時代中期、すなわち五世紀代に入って、その豪族集団のあるものは統合され、あるものは消滅するが、依然として在地小豪族の地位を保つものもあったらしいという歴史的な考察を加えることが可能となったのである。
この真名井古墳と、のち一九六六年秋に大阪府教育委員会の手で調査された鍋塚古墳との間には、式内美具久留御魂神社の境内に属する小丘陵が連なり、古墳が群集していることも知られた。とくに前期と後期の古墳が混在して分布していた。たとえば宮前山古墳は戦後の開墾で凝灰岩製の切石を組み合わせた横口式石棺が開口し(37)、一九六〇年と一九六一年にそれぞれ調査の機会を持ったが、この古墳の南方にも後期の横穴式石室墳のあることを一九六一年の調査で知った。すでに全壊していて、石室の石材なども大部分が失われ、ただ小規模な円墳であったらしいことを明らかにしえたにすぎない。