一九六三年一二月になって、市内伏見堂の田中古墳付近が開発されるに至り、丘陵の西斜面に分布する後期の群集墳のうち、三基の古墳が破壊された。破壊に先立っての調査では、いずれも野石積みの横穴式石室を内部構造とし、須恵器と馬具などの副葬品を有していたことが明らかとなった。一九六六年九月には、宮町の美具久留御魂神社境内の北側にあたり小丘陵の北端に位置していた鍋塚古墳が、宅地造成のために丘陵とともに削平されて消滅した。一九六七年八月、東板持の東側にある板持丘陵の一角に対して、開発に先立つ発掘調査を行ない、二基の古墳のうち3号墳と称したものが前方後方墳という珍しい墳形に属することを明らかにした。
これら一九六〇年代の開発のために破壊された遺跡は、市内の文化財という立場からみると、功罪の全く相対立する結果をもたらした。功としては市内各地で、従来、所在すら明確でなかった遺跡の発見が相次ぎ、古代の富田林地域の発展の状況が考古学的に裏づけられ、ひいてはこの河内南部の石川谷の古代文化が、具体的事実のもとに著しく浮き彫りされてきたことが挙げられるであろう。同じ一九六八年秋に、隣接する河南町一須賀東部の地域が、開発に先立っての調査で、弥生時代後期の高地性集落の分布と、後期古墳群の実態、および須恵器生産窯址の内容とを明らかにしえたことと軌を一にするものであった(38)。
しかしその反面、遺跡の保存と文化財保護という、何にも増して尊重されなければならない問題が、開発に先立って記録保存と称する名目の下での事前調査のために、結果的には遺跡の破壊消滅への口実を与える逆の結果を生むことになった。全国各地の研究者がこのジレンマに悩みつつ、調査に従事することを余儀なくされている矛盾が現在も続いている。開発にともなう遺跡の調査が、予期しなかった新しい遺構と重要な遺物の発掘につながった例は多いが、文化財保存への良心がタンタロスの苦痛をたえず与えている。