一九六九年末に新堂廃寺西方のヲガンジ池畔で瓦窯が発見され、二カ月にわたる調査で、新堂廃寺に白鳳時代以降の屋瓦を供給した瓦窯として、寺院との具体的関係を明らかにした点で重要な成果をもたらした(39)。これと前後して中佐備に須恵器の窯址が発見され、翌春には中野町で新たに弥生遺跡の存在が知られるなど、市内遺跡の内容を豊富にした。
ところが一九七〇年春に平町西方の丘陵に対して大規模な開発が計画され、その地域内に数基の古墳が含まれていたことから、地元の河南および富田林高等学校の考古学クラブが中心となって強い保存運動を展開した。こうした地域社会の文化財を自らの手で保護しようという機運が生じてきたことは、新しい意識の萠芽として高く評価しなければならないと考える。この保存運動は長期にわたって忍耐強く続けられたが、最終的には破壊を阻止することができず、一九七二年の行政調査によって記録保存ののち、古墳は消滅してしまった。