ただこれを契機として市内全域の埋蔵文化財の所在をことごとく明らかにし、事前に開発から保護できる周知の遺跡としようとする機運が生じてきた。これは市内全域を二五のブロックに分かち、さらにそれを二〇〇メートル角の正方形のグリッドからなる網の目でおおう徹底した分布調査の計画で、一九七一年以降から河南および富田林両高等学校の考古学クラブの諸君の協力を得て、一九七五年に至ってほぼ完了した。これによって新たに発見した遺跡は約二〇カ所にのぼり、市教育委員会で分布範囲を整理し公表した。市内の埋蔵文化財に対する関心も、こうして新しい段階を迎えつつある。
このように市内の考古学遺跡の調査研究史を辿ってくると、古墳、寺址、窯址など、内容と範囲が比較的はっきりした遺跡を対象に、これまで調査が進められてきた傾向を指摘することができる。しかし考古学の研究目的が過去人類の社会生活の復原にある以上、集落遺跡の調査は最も重要な課題といえよう。古代集落の成立時期、継続期間、住居の構造と規模、付属施設の配置あるいは生業の内容など、どれを取り上げてみても地域社会を解明する上で興味のある問題である。