それにもかかわらず、市内で従来この方面の調査が進展しなかった理由は、集落遺跡の地域が水田などの耕作地のため、たんなる学術調査の目的で大規模な発掘を試みることができなかったことと、調査体制の不備とに原因がある。一九七〇年代後半に至って、大阪府教育委員会などを中心とした組織的な調査によって、従来の部分的な試掘調査では知る機会のなかった喜志遺跡をはじめとする集落遺跡の実態をようやく明るみに出す新段階を迎えた。現在までの数次の調査を通じて、喜志・中野両遺跡では竪穴住居、柱穴遺構に加えて、井戸をもち溝をめぐらした生活環境と、生業活動の遺跡など弥生時代のムラの姿を具体的にとらえつつある成果を高く評価したい。
石川谷に人びとが進出して、定住と農耕の集落が形成された段階は、地域開発の新紀元を画するものであった。そののち富田林市の成立まで二〇〇〇年もの長い歳月が経過し、いまや住宅など多くの建物が市内の全域をおおいつくそうとしている。さかのぼってゆけば、肥沃な沖積地に位置していた河内平野の多くの集落遺跡に対して、当時の石川谷がどのような地域環境をもち、生業面でどのように相互補完の関係に立っていたかという基本的な問題を解明する緒を、しっかりと把握する努力がいま最も必要である。