縄文時代前期は地質学の上からいうとウルム氷期から五〇〇〇年を経た後氷期にあたり、世界的にみて温暖期となり、日本の場合についてみても現在より摂氏二~三度は高かったらしい。その結果生じた著名な現象は、極地や山岳地帯の氷が融けて海水が増加し、海面の上昇を来たした。この海進は日本全国に広く認められ、関東平野などでは縄文期集落遺跡としての貝塚の分布に非常に大きな影響を与えたので、とくにこれを「縄文海進」と称している。大阪湾ではこの海進の結果、河内平野は一時期水没して、大阪の上町台地の東側は内陸部に深く入り込んで、広い内湾を形成していたらしい(40)。
この頃、周囲の山地や丘陵地帯には常緑のカシ属の植物が昼なお暗い密生した森林を作って繁茂し、それとは逆に前代のコナラ属・ブナ属・シデ属などは減少した。まさにこの時期の国府遺跡では、北方に大きな入江を控えて、東方と南方の山地・丘陵にはびっしりとアカガシやシイなどの照葉樹林が広がり、ちょうど現在の奈良春日山の原始林を見るような自然環境であったと考えられる。市内の錦織遺跡ともなると、周囲は森また森の連続で、変わった風景といえば眼下に見える石川の白い河原と青い水だけであったに違いない。
四〇〇〇年~一八〇〇年前の頃になると、海水面の高さは徐々に低くなり、これまで入江であったところも海とのつながりを断ち、潟湖の形観を呈するようになった。とくに三〇〇〇年前の縄文晩期の頃には、海面は現在の高さよりさらに低くなり、古市付近を中心とする河内平野では植物分布からみると、エノキ属、ムクノキ属の植生が目立ち始めるという。河内中央部では、水面の低下により汀線が後退するにつれて、河口で三角州が広がり、大和川や石川の運ぶ泥土や砂礫の堆積によって葦の生い茂る絶好の低湿泥地を形成した。
大阪湾岸から河口付近にかけてのこのような地形の変化に比べると、石川の中・上流域は縄文時代以降地形的にはあまり大きな変化をしていない。石川の流量は現在よりももっと多く、堤防のない石川谷の中を広い流幅で流れて大きな氾濫原を周辺にもち、堆積物によって次第に自然堤防が形成されていったであろう。流域をはさんで両側には河岸段丘が低平な台地をなしてテラス状に続き、集落の形成に適した森蔭の広場を提供したと考えられる。金剛山や葛城山などの山容は深い自然林におおわれていたことを除くと、現在とは全く変わりのない山稜をもち、谷筋で刻まれていたのである。