これまでの調査によって、市内で縄文土器が確実に発見されているのは、錦織遺跡である。しかしこの他にまだ時期を確定できるほどの土器は採集されていないが、石鏃や石匙などが散布していて、縄文遺跡の可能性をもつ地域が四カ所ある(41)。すなわちつぎの遺跡各説の項で取り上げるように、錦織西方の細井および細井新池遺跡からは石鏃・石匙・石槍・石錐などの各種石器があって(考古二―(2)、一〇―(1))、大部分は弥生時代に下る石器からなるものの、一部には縄文時代の特色をもつ凹基無茎式という形をした石鏃が含まれている。ただし本巻執筆の段階で、その時期を確定する資料を欠いたので、一応弥生遺跡の項において取り扱うことにした。また一方、伏見堂遺跡からも、凹基無茎式をはじめとする石鏃多数と、縄文式土器とみられる土器片を若干採集している。市の東南部に位置する竜泉・甘南備地区の境にも、佐備川遺跡とよぶ同様な性質の遺跡があり、凹基無茎式の石鏃が分布調査の際に小範囲の地域から七個あまり得られていて、石器の材料としたサヌカイト片の散布からみても遺跡の範囲はなかなか広く、東方の細川の台地にかけて広がる可能性があるという。一方市内西部の寺ケ池遺跡では、池に沿った崖面から池底部にかけて遺物の包含層が露出しているらしく、きわめて形のととのった多数の凹基無茎式石鏃が石匙や不定形石器とともに出土していて、縄文土器片も採集されたことがあると伝聞しているので、今後の調査に期待をかけたい遺跡である。