しかしその一方では、堺市から岸和田市にかけての大阪湾岸沿いに点々と分布する縄文遺跡もあり、山間部とは異なった自然環境の下での食糧資源の獲得が、選択の対象となったことを示している。同様に、東大阪市の生駒山西麓の扇状地は、現在でこそ海岸線から二〇キロも隔たっているが、当時は大阪湾に続く大きな入江に臨んでいたと考えられる。この扇状地上には、日下貝塚という大阪府下には数少ない縄文時代の貝塚遺跡があり、主に淡水に棲むセタシジミなどを捕食したあとの貝殻の堆積が残っていた。また東大阪市、八尾市、柏原市などの一部の低地にかけて、ボーリングを試みると、青色粘土と砂層の厚い堆積層が認められ、まま貝殻が含まれている事実から推察すると、この付近の河内平野は入江と広い沼沢地帯の時期が長く続いたらしい。石川は大和川と合流して直ちに沼沢地帯に注ぎ、周囲は芦荻が生い茂り、水辺には魚と水鳥が群をなす姿が見られたのであろう。
上町台地の半島で大阪湾との間はさえぎられたこの入江をさかのぼって南に向かうと、やがて左手に大和川、石川が形作った氾濫原が広がり、正面には小高い台地が、北に向かって舌状に突出している地形を目前にしたにちがいない。この台地の突端に営まれた縄文集落が、藤井寺市国府の遺跡である。