国府の遺跡は、富田林市の錦織遺跡と最も近くて、しかも同じ縄文前期の時期に、ほぼ同じ型式の土器を使っていたという点で、両者の関係は重要である。いま、この立場から、国府遺跡のことを少し紹介しておくことにしよう。国府遺跡は錦織遺跡と同じ石川流域に属していて、前者は石川と大和川の合流点に近く位置し、両遺跡の間は南北にわずかに一〇キロを隔てているにすぎない。詳しくいうと、遺跡は石川の西方にあたっていて、道明寺の方から北方に延びてきた洪積台地の東北角を占め、東側と北側は約五メートルの崖面をなして河内平野の沖積地に臨んでいる(43)。前章の「第二節 調査研究史」で簡単に触れたように、一九二〇年代には近畿地方で類例が乏しいとされて来た縄文遺跡の代表として、大いに学界の注目を集めた。それ以来十数回以上の発掘調査が行なわれ、縄文時代以前の先土器時代から、縄文前期、縄文晩期、弥生時代を経て、飛鳥時代になると寺院も営まれ、奈良時代には河内国府という国衙関係の中心ともなった遺跡とわかった。いわば河内南部において最も古く成立した集落で、しかも長期間にわたって永続したわけで、近年国の指定史跡となったのもその価値から当然であろう。