こうした数千年にわたる時代の変遷を、考古学では発掘調査によって、上下に重なって堆積した文化層の推移から確かめる。文化層の中には、その時代を特徴づける遺構や遺物が含まれているので、後世に撹乱を蒙っていなければ、一つの層の下に位置している層は、上の層よりも必ず古い。一九五七年に島五郎・鎌木義昌両氏らが行なった調査のさいには、この国府遺跡から思いがけず最も古い文化層が発見された。台地の基盤としては、赤褐色砂礫質の硬い洪積層があったが、そのすぐ上にサヌカイトの剥片を沢山含んだ褐色粘土質の薄い文化層があった。この層の中に含まれていた遺物は、のちに国府型石器とよばれたナイフ形石器、横剥石核、横剥刃器からなる石器のみで、土器をともなわず、層位的に縄文以前の堆積を確認した点でも重要であった。この層中から出土したサヌカイト片は、みるからに一万年もの長い歳月を経たことを示すように、本来のつややかな漆黒色の光沢は風化のためにすっかり失われ、表面が灰褐色の水和層でおおわれていて、手にとる人びとをうならせた。
この石器を残してのち、人びとは長期の間この地から立ち去っていたらしく、つぎにその上に堆積しているのは、その後数千年もたった縄文時代前期になってからの文化層である。これは縄文土器や石器を含む黒褐色有機質の包含層で、その上に多量の獣骨片の堆積があって、さらに弥生時代の各種遺物を含む層に続き、上の方に近づくほど新しい飛鳥、奈良時代の屋瓦片、須恵器片、瓦器などを混入する率が高くなり、ついに地表面の現在の耕土となる。つまり一万年にわたる人類の歴史が、一メートルあまりの文化層の中に、ところどころ断絶しながらも積み重ねられているわけである。