もとより当時の人びとが食資源を求めて行動する半径は、たんに五キロというような狭い範囲にとどまらず、さらに拡大した地域におよんだとすると、国府からは北方に広がる沼沢地帯に向かい、錦織では南方の山間地帯への進出が試みられたことであろう。すなわち国府では沼沢や河川の縁辺に群がる豊富な鳥獣や魚介を求め、錦織では原始林の中で鳥獣を狩猟する一方、食用植物の採取によって日々の糧を補ったのかもしれない。調査の結果からすると、国府遺跡は集落としての規模も大きく、間断はあるものの縄文晩期以降は定住集落として発展して行くのに対し、錦織遺跡はこの縄文前期以降に人びとの居住は絶え、飛鳥・奈良時代ごろまで集落が形成されることはなかった。しかし錦織遺跡は縄文前期の段階で、一時期にもせよ人びとが生活していた痕跡を確実に残している点で、石川谷の奥深く最初に進出した人類居住の黎明期をなすものといえようか。そして、このことは将来の調査によって、伏見堂遺跡や佐備川遺跡にも確実な縄文土器が発見されて年代の裏づけができるならば、そのパイオニア達の活躍は一層多様となることであろう。すでに述べたように、この進出は石川谷の場合、石川およびその支流の水系をさかのぼることによって行なわれている点で、当時の尾根道をたどる陸上交通路と興味ある対比をなしている。