国府でも、錦織でも、住居がどのような構造のものであったかは、まだ全くわかっていない。ただ、国府遺跡では発掘調査が相次いで行なわれた結果、縄文前期の墓地の埋葬状況と縄文人の習俗の一部が判明している。これまでに国府からは、一〇〇体に近い人骨の埋葬遺構が発掘された。これらの中には弥生時代に下るものもあるが、ことごとく、屈葬といって、手足を肘関節や腰関節の部分で折り曲げた姿勢で埋葬されている(46)。屈葬する意味については霊魂を禁圧するためとか、胎児形をとらせて再生を願うためとか、休養の姿勢としたとか、いろいろ考えられているが、埋葬に際して墓穴を掘る労力を最小限にするため、遺体の占める空間を最小にした実際的な必要性からであろう。ところが興味のあることに、縄文前期の埋葬に際して遺体の頭部を土器の破片で被ったり、深鉢の土器を傍においた珍しい例が国府遺跡で確かめられている。頭部を土器で被うのは岡山県津雲貝塚にも例があり、ごく限られたこととはいえ、一つの習俗であったといえる。さらに、国府では縄文前期の人びとの間に玦状耳飾という一カ所に切目をつけた円板状の石製品を、今日のイヤリングと全く同様に、耳の装身具として用いていた例がいくつか知られている(47)。国府の場合、人骨の頭部の側面に接して出土したことから、この用途は確実である。錦織遺跡では人骨も、そうした装身具も、まだ、発見されていないが、玦状耳飾は各地で、前期の遺跡を中心として出土例がかなり知られているから、当時の日常生活における服飾を理解する上で参考になるだろう。