錦織遺跡の前期縄文人が人種的にどのような人びとであったのかという点は、習俗、生活、文化内容以上に興味をそそる問題である。直接これに答える資料はないが、一九二〇年に人類学者長谷部言人氏は国府遺跡出土の縄文時代人骨を計測して、高からず低からず中等程度の身長をもつ人種と指摘した。ついでその特徴が「現代日本人骨と著しく異なる点多く、直に以て日本人祖先に擬定せんとする、認容し難し」として「国府石器時代人を以て現代アイノに近似の種族と認るを至当なりと信ず」と結論した(長谷部言人「河内国府石器時代人骨調査」『京大考古学研究報告』四、一九二〇年)。ところが同じ報告書の中で浜田耕作氏は、これら縄文人が「原日本人」と称すべき古い形質をもった人種で、のちの日本人の祖先にあたるとする見解のもとに「国府の石器時代人民は少なくともアイヌ的人種と非アイヌ的人種との両人種の特徴を有し、寧ろ当時に於いて、已に混血人種たりしを証するもの」と全く異なる意見を主張した。
日本考古学が人類学と未分化で共存していた一九世紀末以来、縄文人をアイヌとみたり、幻の先住民コロボックルに結びつける短絡的論争の余波が、まだこの時期に残っていた。明治開国を契機として未知の日本に大挙して訪れた欧米人が、北アメリカの原住民を駆逐したヨーロッパ人の体験を、列島に住む人びとにも早速適用して速断したのも無理からぬ話である。国府遺跡出土の人骨が実証的な人類学研究の新しい資料としてはたした役割は大きかったが、まだ人類学者のアイヌ説を完全に解消させるものではなかった。一〇〇年後の現在では全国的に増加した資料をもとに一層慎重な検討が進められて、縄文人とアイヌの人びととの形質の差は、現代日本人との比較で認められるのと同じ程度の距離があるという。一万年を超える歳月の間に、縄文人も列島の東西にわたって交流を繰り返し、形質も変化していったうえに、その後の大陸からの新渡来人の影響も加わっていったのである。