近鉄長野線汐ノ宮駅の東北方約四〇〇メートルの地点にある(62)。すなわち東方にそびえる嶽山の西麓にあたって、六〇〇メートルの幅で西に向かって緩やかに傾斜しつつ舌状に広がった台地の西南縁を占めている。石川はこの台地の西縁を南から北へと鉤の手に屈曲しながら流れ、あるところでは早瀬となり、曲折部は淵となって淀んでいる。現在では台地の縁辺は崖をなして川に臨み、その景観は西方からみると美しい。
この遺跡は一九七一年三月に実施した本市の教育委員会による分布調査で知られた。この地区の調査を担当した富田林高校の小泉君ら考古クラブ員は「石川東側河岸段丘西端、現石川河原に切れ落ちる崖淵で、崖線に沿って幅一〇〇メートル、長さ三〇〇メートル、標高約九〇メートルの水田が遺跡範囲であろうと思われる。遺物は縄文期石鏃が多く、若干の縄文式土器片がある……」と調査カードに記している。ところが遺跡の存在は、その前年一二月に、河内長野市大師山遺跡の発掘に関連して、関西大学が行なった周辺地域の分布調査の際に注意に上っていたので、当時両者は別個に同一遺跡を発見することになったものの、関西大学がやや先んじた点を明らかにしておかねばならない。ただしこの成果が公表されたのは一九七七年のことである。
今、遺物の散布状況からその範囲を求めるならば、北は西野々古墳群、東は彼方長野線の道路、南は横山集落、西は石川東岸によって囲まれた南北三〇〇メートル、東西一五〇メートル程度の台地の西南縁一帯である(64)。この空中写真からみると、手前の南方にあたる河内長野市の地域から蛇行しつつ流れる石川が、最も強くS字状に屈曲する中間点に遺跡の所在することがわかる。嶽山の西麓と羽曳野丘陵の南端とが接近して、石川の上流域と中流域とを分ける谷口を形成していると表現するにふさわしいといえようか。台地は嶽山の西麓に沿って広がる河岸段丘で、南方から撮影したこの写真によって石川が浸食した崖面をなしていることがよくわかる。この遺跡の地域内は水田と畑地からなり、北方に建てられた病院施設を除くと人家はほとんどない。
遺物の散布状況、とくに石鏃は千代田橋に近い台地の南端部から集中して採集され、サヌカイト片もこの地域にとくに多い。関西大学の分布調査でも、台地の縁辺部にサヌカイト片の散布が顕著に認められたことを、報告者の峯正明氏は明らかにしている。これらの事実からすると、遺跡の中心は石川に突出した台地の南端にある可能性が強い。ただし文化層の堆積がどの程度であるかという点に関しては、現在までのところ全く試掘の機会がないので、今後に残された問題である。