市域の東南部にあたり、千早赤阪村に近い竜泉と甘南備の接する甘城橋の近くにあり、龍泉寺からは東南方に四五〇メートル隔てている。すなわちこの地点は石川の東岸に位置する山中田から南方へ約四キロ佐備川をさかのぼった谷奥の地であって、東側に中山丘陵、西側に嶽山、金胎寺山などの丘陵が連なっている。もし河内長野市方面から金胎寺山の東裾を通る道路をとれば、ちょうど峠を抜けて蒲(がま)の集落が見えるあたりから、右手前方に北に向かって突出した丘陵の先端が見え始める。ここに紹介する遺跡は、この丘陵の先端からさらに北方に向かって張り出した舌状の段丘面上に位置している(65)。この付近の標高はおよそ一〇五メートル内外で、遺跡の東側と西側にはそれぞれ北流する佐備川の支流があり、すぐ北方地点で合流して上述の谷を流れ下る。したがって遺跡の主要な範囲は東と西、および北を河川によって画され、南は丘陵でさえぎられた狭小な地域で、南北一〇〇メートル、東西五〇メートルの広さしかない。しかし別に東方の細川の台地上にも遺物が散布しているので、これを同一遺跡の一部とみれば、遺跡の分布範囲は案外広いものといわねばならない。現在この台地一帯は水田と畑地として利用されている(67)。