今回の遺物の採集による遺跡の発見は地表面での観察にとどまり、遺跡の内容にはおよばないが、石鏃および石錐とサヌカイト片が上記の佐備川合流点の舌状台地でも、とくに南部の丘麓に接した甘南備側の径三〇メートルほどの地域にとくに密集している点で、おそらくここを中心とする小規模な集落遺跡と考えられる。地形からみてもこの地域が台地上では最も高い部分にあたっている。なお土師器片・須恵器片もこの同じ地点で大量に散布していた点で、縄文時代と古墳時代の新旧相隔たった両時期に、この地域が集落の立地として利用されたことを示すものとして興味がある。
石鏃を通じて推測したように佐備川遺跡が縄文時代に属するかどうか、さらにその時期はいつに限定できるかの問題は今後の調査に待たねばならない。その上で、石川の本流に沿う錦織遺跡や伏見堂遺跡よりもさらに奥地にあって、佐備川という支流をさかのぼった狭隘な河谷の最奥部に位置するこの遺跡の性格を論じることができるであろう(66)。いいかえると縄文時代の社会が採集経済という基盤によって、市内でも最も奥まった内陸部に進出した事情をよく物語っているものと考えられる。彼らをここに誘致したのは、まさに標高一一二五メートルの奥深い金剛山系をおおって広がった原始林の自然環境であったといえる。国府遺跡の縄文文化層上に厚く包含されていたのは、シカやイノシシなどの獣骨類であった。そして今世紀に至るまで金剛・和泉山地には野生のシカやイノシシが棲息し、冬季に狩猟が盛んに行なわれていたのである。山間部の豊かな水系と樹林に囲まれた縄文時代は、いわば自然環境をそのあるがままの姿で、食糧獲得の場として活用し生活圏を維持しようとした段階であった。農耕の行なわれない社会においては低湿な平地は必要ではなく、自給自足の経済にとって交易のための地理的条件に支配されることはなかったのである。(竹谷俊夫)