稲作農耕開始の問題

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北九州では最も古い弥生式土器として位置づけられる板付式土器(73)が、縄文時代最末期の夜臼式土器と共存していた事実が確かめられたり、日本各地の弥生遺跡から出土する打製石斧、石鏃、石匙あるいは勾玉などが、縄文時代と共通する要素として存在することもよく知られている。さらに従来は稲作農耕が弥生時代になってから始まったものと解釈してきたのに対して、近年では西九州の縄文晩期の土器の表面に、しばしば籾の圧痕を印している事実や、炭化玄米が遺構内から出土する事例の発見が増加しているので、九州の一角では縄文人たちが米を食用に供したり、あるいは栽培していた可能性が強いとしている。すなわち弥生文化を規定する稲作技術の要素が、すでに前段階で萠芽していたといえるのである。

73 板付式土器 (福岡県板付遺跡出土)

 一方、弥生時代にも縄文時代のように貝類を捕食して貝塚を形成した場合があり、シカやイノシシの獣骨も豊富に発見される例もあるが、弥生文化の重要な特色は、水稲栽培による稲作農耕を社会経済の主要な基盤としていたことといえよう。これは日本列島で自生していた野生のイネがあったというより、大陸の、おそらく中国揚子江下流域の地方で栽培されていたものが、なんらかの経路をへて栽培技術とともに日本へ伝えられた公算が大きい。水稲栽培に相前後して大陸系の農耕用石器である石包丁が穂摘具として登場し、磨製柱状片刃石斧や扁平石斧などの木工具がこれに加わっている。紡織具をはじめとする機織の道具が使われ始めたのも同様に大陸文化の影響によるものである。

 さらに弥生前期の段階で青銅製あるいは鉄製の各種金属器が出現しているのは、縄文文化との間の最も大きな相違点であろう。中国では石包丁の原形となる石刀を、弥生文化より四〇〇〇年も古くから栽培穀物の収穫具として使い始めていたことが、中国北部の半坡遺跡の発掘によって明らかにされている。青銅器も殷(商)時代に広く使われ、鉄器も西周時代に姿を見せ、最近の研究によると紀元前六世紀から五世紀にかけて、鋳鉄製品を主とする農具や、可鍛鉄の製品も加わり始めるという。こうした中国の高度な文化が日本列島に伝わるためには、まず中国東北と朝鮮半島を経由することが必要であった。